ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#11 権五郎社前 —鳥居の傍にあった駅—

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ

先日投稿したタンコロまつりのレポがアクセス数の最高記録を更新して、ちょっとびっくりしています。この調子で他の記事も伸びてくれればなぁ…なんて思ったり(ならもっと面白い記事書けって話ですが)

 

さて、今回紹介するのはこちら。長谷と極楽寺の間にありました。

権五郎社前(ごんごろうしゃまえ)停留場です(長い…!)。

 

 

今回も地図と年表を用意したので、ぜひご活用ください!

地理院地図に筆者加筆

 

【権五郎社前停留場 年表】
M43.2中旬(1910)
新設開業
S6.10.4 (1931)
廃止(S5.10.21申請, 7.21認可)

(開業と廃止だけの年表に果たして意味はあるのだろうか…)

 

1.権五郎社前停留場

長谷駅から西に3分ほど歩くと、御霊神社という小さな神社があります。

この神社は別称を「権五郎神社」といい、上画像のように、なんと参道を江ノ電が横切っている珍しい神社なのです。

この極楽寺1号踏切の脇にあったのが権五郎社前停留場です。

昭和3年の権五郎社前停留場

現在の様子で考えると、この位置になります。

極楽寺1号踏切より長谷方面

 

開業は、極楽寺―大町間延伸が行われた明治40(1907)年8月16日…ではなく、実は途中で新設された停留場なんです。

▲橫濱貿易新報「昇降所の改稱」1910年2月19日付, 4面

それを示すのがこちらの資料。今回で3回目の登場、明治43(1910)年2月の新聞記事です。左から2行目の一番上に「權五郞社前(新設)」と書かれているのが確認できます(ちょっと見づらいですが…)

よって、具体的な設置日まではわかりませんが、明治43(1910)年2月中旬頃に新設されたことがわかります。

 

当停留場は、新設から20年ちょっとの間(確認できる限りでは)特に変動はなく、昭和6(1931)年に廃止されてしまいます。蔵屋敷学校裏原ノ台と同様、例の速力増進のための間引きですね。
廃止時点での一日平均乗車人員は0.5人で、学校裏停留場同様、この際廃止された13停留場の中では最少でした。

 

停留場については以上です。あっという間ですね…。

 

2.名所案内

それではおまけパートへ。いや、むしろ今回はこっちが本編ですかね。

地理院地図に筆者加筆

 

①御霊神社 —近年賑わう坂ノ下の古社—

まずは御霊(ごりょう)神社について。地元では「御霊(ごれい)神社」「権五郎さま」などとも呼ばれています。

別称の「権五郎神社」というのは、当社で祀られている、桓武天皇の子孫で「鎌倉武士団」を率いた鎌倉権五郎景正(政)の字(あざな)に由来します。

創建は平安時代後期と伝えられており、文治元(1185)年にはすでにあったようです。

▲社内の案内板



踏切横、神社入口の鳥居は、平成23(2011)年12月造のもの。以前は江戸末期の嘉永年間(1848~1854)に建てられた鳥居だったそうですが、安全のために建て替えたのだといいます。

 

境内に入ると、社務所の横に大木が見えます。これは市の天然記念物にも指定されているタブノキで、江戸時代初期からあるそうです。推定樹齢は昭和59(1984)年時点で約350年、現在では約390年となっています。

 

タブノキを横に見つつ参道を行くと、右手に小さな建物があります。これは宝物庫で、当社の祭礼「面掛行列」で面掛十人衆がつけていたお面が保存されています。中には、なんと江戸時代から使われているものもあるそうです。

この中の「福禄寿」は鎌倉・江ノ島七福神の一つに数えられており、幸福と財産と寿命とおめでたいものをすべて授ける神とされています。

また、この宝物庫のある場所には、明治35(1902)年の2月から4月の2ヶ月間、小説家・編集者として著名な国木田独歩が住んだといいます。

 

そのまま参道を進み、階段を上がると拝殿および本殿があります。現在のものは大正2(1913)年に建て替えられたものです。

 

▲夫婦銀杏

▲袂石・手玉石

社殿から右に行くと、夫婦円満・家内安全・子宝安産のシンボルとなっている夫婦(めおと)銀杏や、景正が力比べをして己の力を示したという袂石・手玉石があります。

また、奥には海中にあったという巨石を祀っている石上神社など、小さな社が多くあります。

 

左に行くと、神輿庫があります。現在は一つの建物になっていますが、元々手前側(緑屋根)と奥側(青屋根)は別々の建物でした。宮司さんによると、奥の建物は元から神輿庫でしたが、手前のものは旧社殿だといいます。

 

明治30年代末の社殿(御霊神社蔵)

上が現在、下が明治30年代末の様子。確かに、社殿が神輿庫(緑屋根)とそっくりです。当時は上側の屋根が茅葺だったんですねぇ。ちなみに、この旧社殿には安永9(1780)年の棟札があるそうです。
なお、横の建物は神輿庫(青屋根)です。

また、ちょっとわかりにくいですが、盛土の高さが現在の3分の2くらいしかなく、石垣も現在とは異なります。

 

明治40年代の社殿(御霊神社蔵)

そしてこちらは土盛工事完了後の様子。先ほどの画像と比較して、社殿や周辺の木などの下部が埋まっているのがわかるかと思います。

さて、突然ですがクイズです。この土はどこから持ってきたのでしょうか?
ヒントはこの付近にある、とある構造物です。

 

 

 

 

さぁ、答えやいかに…

 

 

 

正解は、江ノ電極楽寺隧道です。
わかりましたか?

トンネル掘削の際に土砂が出たので、それを使って嵩上げをしたそうです。これを裏付けるように、社殿のある場所には所々大きな石が埋まっています。

トンネルの竣工が明治40(1907)年2月なので、嵩上げ工事もこの頃行われたんでしょうね。

 

▲大正初年の社殿(御霊神社蔵)

そして大正初年頃の様子。旧社殿は明治45(1912)年に移築、既存の神輿庫(先ほどの青屋根のもの)と合築して神輿庫となりました。先述の通り、画像にある現在の社殿は翌大正2(1913)年9月に建てられました

なお、盛土の端や階段にある欄干は、さらに1年後の大正3(1914)年9月に設けられたようです。

 

さて、御霊神社の紹介はこんなところです。
実はこの神社、小さい頃に色々とお世話になっていまして…。最近はテレビやSNSの影響もあって連日観光客で賑わっていますが、以前は人っ気のない場所でした。よく知る所が賑わっているのは嬉しいですが、静かな御霊社も忘れ難いですねぇ…。

 

諸般の事情により御霊神社は原則撮影禁止となっています。今回の写真は、宮司さんの許可を得て撮影・掲載しています

 

②力餅家 —江戸時代から続く老舗和菓子屋—

御霊神社からまっすぐ道を行くと、少し広い道に出ます。この角にあるのが「力餅家」です。

創業は元禄年間(1688~1704)と伝えられ、実に320年近く営業していることになります。これはおそらく鎌倉最古でしょうな。現在の建物は、終戦直後に仮設したバラックをそのまま使用しているそうです。

店名や商品名になっている「力餅」は、御霊神社の袂石・手玉石に由来します。これらの力石に供えた餅を参列者に分け与えたところ、「こんなに美味いのなら店を開いたらどうだ」と言われて創業したんだとか。

 

メインは権五郎力餅。中が求肥のものもあります。お餅の方は日持ちしないので、お土産として買うなら求肥が良いでしょう。お餅は来訪者の特権ってことで。

食レポは下手くそなのでしません(できません)が、味・食感共に保障します。気になる方はぜひ自身の舌で確かめてみてくださいな。

力餅の他にも、福面饅頭や夫婦饅頭など、地域に則したお菓子があります。これらもぜひご賞味あれ。個人的には和三盆がお気に入りだったり。

 

力餅家HPはこちら

 

③星ノ井 —十井の一, 水面に映った星空—

力餅家の角を左に折れて100mほど行くと、前方に階段が見えます。この下にあるのが星ノ井です。「星月ノ井」「星月夜ノ井」ともいい、鎌倉十井の一つに数えられています。

昔この辺りには木が鬱蒼と茂っており、昼でも暗かったそうです。井戸の名の由来は、暗いこの谷戸を「星月谷(ほしづきがやつ)」と呼び、そこにある井戸だからだとか、昼でも星の影が井戸に映っていたからだとかいいます。

当地の伝説では、下働きの女性が誤って菜刀を井戸に落としてしまって以来、水面に星が映らなくなってしまったといいます。

また、行基僧が井戸に輝いた三つの明星石を虚空蔵菩薩の化身と思い、虚空蔵堂(井戸脇の階段上)を建てたという言い伝えもあります。この明星石はお堂と共に付近の成就院が管理しています。

 

ところで、知らない鉄ちゃんはいないであろう鉄道唱歌」にも、星ノ井が登場します。気になる方はぜひ探してみてくださいな。
役に立たないヒント:鎌倉パート(第1集・東海道編の6~9番)

 

さて、最後に一つ。今回紹介した一帯は「坂ノ下」といいますが、これは極楽寺坂の下に位置するためだそう。単純!

極楽寺

 

では、今回はこの辺りで失礼します。( _ _)

 

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