ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#7 原ノ台

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ

江ノ電に乗ったことのある方なら、誰しも一度は感じたことがあるでしょう。
駅と駅の間隔が近い!
とりわけ、前回紹介した和田塚駅由比ヶ浜駅は最短で、お互いが見える程の距離にあります。

が、しかし…。昔はその間に、更に駅(停留場)がありまして…。

 

ということで、今回紹介するのはこちら。

 

原ノ台(はらのだい)停留場です。

 

 

今回も地図と年表を用意したので、ぜひご活用ください!

地理院地図に筆者加筆

 

【原ノ台停留場 年表】
M40.8.16 (1907)
極楽寺~大町間延伸に伴い開業
M42.7(1909)~M45.7.5(1912)
原ノ台停留場に待避線を新設
T1.9.24 (1912)
待避線を鎌倉郡鎌倉町大字大町字塔ノ辻253番イ号の3地内(藤沢起点5138間より5168間)に移転指令(M45.7.5申請)
S4.4.18 (1929)
線路中心・ホーム擁壁間の幅員を拡張認可(S3.8.22届出→申請)
S6.10.4 (1931)
廃止(S5.10.21申請, 7.21認可)

 

1.原ノ台って? ~土地・停留場概要~

上記の通り、現在の和田塚・由比ヶ浜両駅の間に設けられていたのが、原ノ台停留場です。「原ノ台」というのはこの辺り一帯の地名で、名前の通り他の場所よりも6, 7mほど高くなっています

当然、江ノ電もこの「原ノ台」を通過しています。蔵屋敷停留場を出た電車は、この「原ノ台」の坂を一生懸命登り、そして下って長谷へと向かっていったのです。この頂上付近に設けられていたのが、原ノ台停留場です。

現在でも、和田塚-由比ヶ浜間を走る様子を先頭で見ていると、「登って下る」感じがよくわかります。

 

原ノ台停留場は、明治40年8月に極楽寺-大町間延伸に伴い開業しました。

由比ヶ浜3号踏切より

場所は和田塚駅から1つ目の、由比ヶ浜3号踏切の付近踏切から10mほどの場所に、細長いホームがありました。

廃止は昭和6年で、速力増進のため、蔵屋敷・学校裏など12の停留場と共に廃止されました。廃止時点での一日平均乗車人員は10人で、13停留場の中では最多でした。

 

2.行違いができた!?

①待避線はどこにあった?

前回に続き、こちらでも列車交換(行違い)ができたようです。
前回の記事を読んだ方からすれば、何の事はない話ですかね。というのも、和田塚停留場の待避線は、ここ原ノ台停留場のものを移設してできたんですから。

では、待避線はどちら側に膨らんでたんでしょうか? おそらく、線路の北側、つまりホームの場所に待避線があったと考えるのが妥当でしょう。が、しかし…

昭和3年の原ノ台停留場

ホームは土地境界ギリギリまであるにも関わらず、幅はわずか6フィート(約1.8m)しかありません。土工定規(切土・盛土・複線など、線路の横断面の設計規定)では車輌幅として8フィート分確保することになっている(下画像)ので、これでは線路どころか車輌も通せません

ということは、線路の南側(ホームがなかった方)でしょうか?
いや、こちらも幅は同じくらいですね…。

昭和5年改訂以前の土工定規(一部)

 

さて、あまりグダグダと考察していても仕方がないので、個人的な結論を出しておきましょう。

ズバり、それは…
線路の北側(ホームがあった方)です。

 

・・・。(  ˙-˙  )

 

「さっき否定したばかりなのに、何言ってんだこいつは」

ごもっともです。が、もちろん適当言っているつもりはありません。

久しぶりに登場した、大正8年(上)と昭和2年(下)の地図。真ん中辺りに描かれている道の左側が停留場のある場所です。

この2枚を見比べると…
線路北側、ホームのすぐ上にある民家は、大正時代にはなかった事が読み取れると思います。地元の有志が測図しており、細かい所まで記されているので、信用には値するはずです。

 

つまり…
本線の北側に待避線が膨らんでいた
大正元年、待避線を和田塚停留場に移転
跡地は個人への売却とホームに割り当てられた
と、いうことではないでしょうか。

ホーム幅が狭いのは、民家が建った後に造成されたと考えれば説明がつきます。

 

②待避線はいつできた?

ところでこの待避線、いつできたんでしょう?

「わざわざこんな事を書くってことは、開業時からじゃなさそうだな」と思った方、ご名答です。

年表にもある通り、明治42年7月以降の設置と推測しています。
というのも、明治42年7月の営業報告書には、原ノ台のお隣の海浜院」停留場(現在の由比ヶ浜駅)が行違い場所として示されているんです。

原ノ台-海浜院間の距離は約250m。この短距離に2か所も待避線を設けるのならば、中間地点に停留場を設定してそこに待避線を造る方が合理的です。
よって、これ以降のどこかのタイミングで待避線が移されたと考えるのが妥当でしょうね。

で、この「どこかのタイミング」というのは、全線開通時じゃないかなと推測してます。
下の2つの図を見れば、何となくわかっていただけるかと思います。

▲大町までの頃(M42.7)

まずはこちら。営業報告書の発行された、明治42年7月時点での様子。海浜院-大町間は775mですが、この区間に待避線は無いので、交換所間の距離は1550mになります。この時の平均が約1500mなので、良い数字と言えるでしょう。

さて、鋭い方々は「長谷-海浜院間の距離が短すぎるから、待避線を原ノ台に移して調整したんじゃないか」と思ったはず。

これ、実はちょっと面白くて。図には載せていませんが、長谷と、その一つ江ノ島側の交換所との距離が大体1km程度なんですよ。ということは、長谷で行違いをしなければ約1.5kmとなり、ちょうどいい距離になるんです。おそらく、長谷の待避線は夏の海水浴シーズンの増発を手伝ってたんじゃないかと思います。

▲全通時推定(M43.11.4)

そしてこちら。資料がないので正確にはわかりませんが、全通時のもの(推定)です。原ノ台を交換所と仮定すれば、いい具合にバランスが取れた距離になりますね。少なくとも海浜院(この頃には改称して「海岸通」といった)よりは適任です。

ちなみにこれを和田塚に移すと、長谷-和田塚間:887m、和田塚-小町間:820mと、更に良い距離になります。

 

以上より、「明治42年7月以降に海浜院停留場から移設され、その機会は全通時ではないか」という結論に至るわけです。

 

3.虚子の碑

それではおまけパートへ。今回は「虚子の碑」について書きます。
「虚子」というのは、言わずと知れた俳人・小説家の高浜虚子のことです。

▲虚子の碑(右)と説明看板(左)

「波音の 由井ヶ濱より 初電車」

この句碑は、原ノ台停留場から一つ進んだ踏切の傍らにあります(冒頭の地図参照)。なぜこんな場所にあるのかというと…

実はこの一角が虚子の旧家だったからなんですね。明治43(1910)年に越してから昭和34(1959)年に亡くなるまで、実に50年もの歳月を過ごした場所です。厳密には三度引っ越したようですが、初めに越してきたこの家に落ち着いたそうです。

句にある「電車」はもちろん江ノ電のことでしょうね。明治・大正・昭和と変わる世の中で、変わらないようで少しずつ変化してきた江ノ電を軒先からじっくり眺めていたと思うと、何だか感慨深いですね。

もちろん眺めるだけでなく、お客にもなっていたはずです。昭和6年までは原ノ台停留場を利用し、廃止後は海岸通停留場を利用したのでしょうか。あるいは、昔の江ノ電は自由だったので、停留場廃止後も家の前で乗り降りしていたのかもしれません。

こうして想像を膨らませてみるのも面白いですね。

 

では、今回はこの辺りで失礼します。

 

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