どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ
以前極楽寺駅の記事を書いた際、初代停留場の位置を推測した根拠を示していなかったので、今回はそれについて書いていきます。
読者の皆様には至極どうでもいい内容かもしれませんが、このブログの目的は自分の備忘録が5, 6割くらいなので、書きます。
0.おさらい
以前の記事では、上地図・画像の通り、初代極楽寺停留場は車庫の前の辺りにあったとしました。
そしてその論拠として、
①地名(小字)
②距離(キロ数)
③運賃
の3点を示しました。今回はこれらについて記していこうと思います。
1.地名(小字)
まずは地名から。早速ですが、下の画像をご覧ください。
こちらはかつての極楽寺駅周辺の小字(現在は廃止)の境界を示したものです。この付近は迎山(むかえやま)・寺中(じちゅう)・上町(かみちょう)・下手ヶ久保(へたがくぼ)の4つの小字から成っていました。
次に、江ノ電の社史を読むと、開業・延伸時に線路を敷設する起終点は「藤沢大阪町-川口村片瀬」といった具合に、停留場名でなく地名を用いて表されているんです。極楽寺延伸時も例に漏れず「極楽寺追揚-極楽寺迎山」とあります。
これより、迎山地内に終端があったことがわかります。つまり、上の画像を参考にすると、S字カーブから車庫の北までの範囲であることがわかります。
2.距離(キロ数)
続いて距離の観点から。ここでいう「距離」とは、延伸時の線路延長のことです。では早速資料をば。
上は社史『江ノ電六十年記』を引用したものです。明治40年の極楽寺-大町間延伸時の距離が記されています。大町停留場が藤沢の起点から9.736.531km地点にあり、これは変更されていない可能性が高いので、ここから1哩(マイル)25鎖(チェーン)55節(リンク)(≒2.123.328km)遡ると、初代極楽寺停留場の位置は藤沢起点7.613.203km地点(車庫の前)付近となります。
以下余談となりますが、なぜ上記のデータを選出したのかについて。
【その1】数値が細かい
哩・鎖のみならず、節まで記されているので、より詳細な位置の特定に役立ちます。
【その2】追揚停留場の位置が確実でない
追揚-極楽寺間延伸時の距離も調べれば検算にもなるじゃないか、と思うのは当然の考えですが、前提となる追揚停留場の位置が不確実なんですよねぇ…。七里ヶ浜-稲村ヶ崎間に同名の停留場はありましたが、個人的に初代追揚停留場はそれとは異なると考えてます(また記事にします)。
大町停留場は移転の可能性がかなり低いので、今回はこちらを採用。
【その3】数値の裏付けが取れている
今回参考にした『江ノ電六十年記』ですが、本社火災後に急いで作られたものなので、結構メチャクチャな所があるんですよね…。その上この本にしか無い情報(しかも出所不明)が多々あるときたもんだ。そういうわけでこの本の数字は少し慎重に扱わなければなりません。が…、
今回用いたデータは、明治43年の鉄道院の資料で裏付けが取れています(下画像赤線部)。こちらでは1哩24鎖となっておりわずかに異なっていますが、大ハズレではないので、まぁ誤差でしょう。
3.運賃
続いて運賃より。前回掲載した明治42年7月の時刻表左の運賃を用います。
前回少し書きましたが、他資料と併せて考えると、なぜか1/4哩(約400m)から換算され、大体半哩(約800m)で2銭になっていることがわかります。1哩=80鎖なので、40鎖で2銭とも言い換えられます。すると、藤沢から18銭の極楽寺は4哩60鎖付近にあることになります。
さて、ここで先ほどの「距離」と併せて考えてみます。大町停留場はヤード・ポンド法(哩・鎖・節)換算すると6哩4鎖0節となるので、ここから1哩25鎖55節遡ると、極楽寺停留場は4哩58鎖45節とすごく理想的な数字になります。
よって、運賃から考えても、あの位置でおかしな点は特にないことがわかります。
以上より、極楽寺迎山地内、藤沢起点7.613.203km地点近辺、現在の車庫の前にあったのではないかと結論付けます。
4.おまけ
最後におまけで、地図に見える初代極楽寺停留場について。
上は明治38年の地図(絵図といったが良いかも…?)です。江ノ電が極楽寺終点の時のものですね。さて、この地図を見て「おぉ…!?」と思った方はおそらく私と気が合います。
「極樂寺停車場」と書かれた横に建造物が描かれていますよね? これ、まさか駅舎…!?
この地図、寺社やその他特徴のある建物は結構細かく描き分けられているんですが、駅(停車場)はそんなに凝ってないんですよね…。なので、この通りの建物だったのか、はたまた駅舎があったのかすらもわかりません。古い写真でも出てくればなぁなんて思う今日この頃。
それでは、今回はこの辺りで。( _ _)