ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【検証】初代・極楽寺待避線(車庫前)はどこにあった?

どうもお久しぶりです。ひこねです( ̄  ̄)ノ

以前車庫前の記事を書いた際、初代の位置が不明だとしました。残念ながら現在でもそうなのですが(誰か教えて…!)、今回はその候補を挙げ、可能性の度合を判断していこうと思います。

 

 

0.おさらい

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線)
※位置は極楽寺待避線のみ反映, [n]=n代目, なお初代は明記せず

車庫前停留場こと極楽寺待避線は、路線延伸時の明治37(1904)年からありました。判明している中では通算5つの位置にあり、明治・大正期の1・2代目と、昭和期の3~5代目(ここで極楽寺停留場に統合)に二分できます。

今回はその内、初代待避線の位置について考察します。ちなみに、待避線の長さは30間(50m程度)です。

 

 

1.存在範囲

周辺をしらみつぶしに調査するのではどうにもならないので、まずは存在範囲を絞ります

▲待避線移転時の稟議書

こちらは初代待避線移転時の資料です。赤線で示した通り、待避線は「迎山(むかえやま)」にあったようです。

 

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線, 破線は小字境)

続いて、こちらはかつての車庫周辺の小字(現在は廃止)の境界を示したものです。上の画像を参考にすると、字迎山は、S字カーブから車庫の北までの範囲であることがわかります。つまり、この範囲のどこかにあったわけです。

 

 

2.候補・考察

よって、以下に図示したように、大きく分けて3つの場所が候補として考えられます。
※2代目待避線は車庫横の踏切から分岐していたと推測されるため、これ以上北には存在しなかったはずです。

ここからは、これらについて考察していきます。

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線)

 

①S字カーブ途中

第一の候補は、S字カーブの途中です。

▲初代待避線(推測)

イメージとしてはこんな感じで、線路の海側は崖になっているため、側線は山側に膨らんでいたものと思われます。

 

▲昭和3(1928)年申請の3代目待避線(未成)

とはいえ、第2回目の記事で書いた通り、用地買収の難航により3代目待避線の設置計画が変更されている事実があります。資料には詳細にどこの土地とは明記されていませんが、以前の記事では待避側線の部分ではないか、としました。

 

▲曲線半径緩和工事時の資料(S15年)

というのも、山側には線路を敷ける用地が無いんです。上はS字カーブの急曲線緩和工事時の資料で、画像中央付近にある踏切の下側、現在議論中のS字カーブ内直線部分も確認できます。
パッと見た感じでは、線路の脇にスペースがあって待避線を設置できそうですが…、ここで画像右上の複線部分(4代目待避線)と比較してみてください。明らかに土地が足りないはずです。
車輌小さい四輪単車の頃から複線の線路中心間隔は10呎(3mちょい)なので、「明治時代は狭くても敷けた」なんてことはないはずです。

 

よって、S字カーブ内にあった可能性は高くはなさそうです。

 

 

②S字カーブ~車庫引込線

第二の候補は、S字カーブから車庫引込線付近の直線区間です。3代目・4代目待避線のあった辺りですね。昔は現在車庫線の一部になっている山側の線路が本線だったので、3・4代目同様、側線は海側に膨らんでいたものと思われます。

▲3代目待避線(引込線は車庫)

▲4代目待避線(引込線は車庫)

結論から書くと、この付近にあった可能性は十分にあると思います。というのも、3代目から4代目への移転の際に、新たに用地を取得せず「在来社有地」を使用したそうだからです。事前に土地を有していたということは、過去に何らかの施設があった可能性が高いはずです。さらに、線路の南側は道路なので、置けてもせいぜい線路1本くらいでしょう。となると、やはりこの付近に初代待避線があったのではないでしょうか。

もちろん、「事前に土地を有していた」とはいっても、待避線移転工事の少し前に土地だけ収用しておいたという可能性も考えられますが…。

 

 

③車庫の前

第三の候補は、車庫の前です。以前記事にした通り、ここは初代極楽寺停留場があった場所です。

▲初代極楽寺停留場位置

つまり、開業時の極楽寺停留場が待避線を有しており、行違い可能な構造をしていたのでは、という説。正直に言うと、これを示す証拠は何一つありませんそもそも停留場位置も推測ですし…。

ただ、この説の都合の良い所は、初代極楽寺停留場・待避線両方の移転の理由が作れる点です。その理由というのは、ズバリ「車庫の新設」です。

これまで何度か書いてきましたが、開業当初は片瀬(現:江ノ島駅)に車庫がありました。しかし路線延伸と共に車輌数も増え、片瀬の車庫では手狭になったため、極楽寺に車庫が新築されることになったのです。

まず、車庫新設にかかる申請をしたのが明治45(1912)年4月30日です。そして、2代目待避線設置に関する申請をしたのが同年4月26日です。ということは…、車庫新設に伴い、同位置にあった待避線を移転、ついでに停留場も利用者が見込めそう(下図参照)な位置に移転、といった感じでしょうか。

大正8年の鎌倉町の地図(一部)

偶然の可能性もありますが、何ともうまく合っているように見えますねぇ…。
ただしかし、この説には一点引っかかることがありまして…。

▲待避線移転時の稟議書(再掲)

大したことではないのですが、「鎌倉郡鎌倉町極樂寺字迎山」と、待避線の所在が地名で記されているんですよね…。他資料では、停留場に併設されている待避線は皆「〇〇昇降場ニ設置シアル待避線・・・」といったように停留場名が表記されています(※)。なので、こう書かれていないということは、停留場の待避線の併設は少し怪しいのでは…と考えるわけです。

※移転先の「腰越津村津字池廻地内」についても、別資料では括弧書きで「峯ヶ原昇降場」と明記されています。

 

3.まとめ

地理院地図に筆者加筆(再掲)

以上の候補地を可能性が高い順に並べると、②>③>①となります。私は、やはり②の4代目待避線付近の直線部が怪しいと見ますが、いかがでしょうか。今後情報が増えたり、日を改めて再考察したりした際に意見が変わるかもしれませんが…。
読者の方で何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄にお願いします。

 

それでは、今回はこの辺りで。( _ _)