ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#12 極楽寺 その1 —不動と思いきや!?—

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ

1ヶ月以上間が空いてしまいましたが、駅史を進めていきます。

 

さて、今回紹介するのはこちら。現役の駅…

極楽寺(ごくらくじ)駅です。

ついに来てしまった…。

というのも、この極楽寺なんですよね。いや、所在地も鎌倉の山間部ですが(トンネルもありますし)、そういうことではなくて。

極楽寺駅は静かで昔ながらの雰囲気もあって、120年近く不動のように思えるのですが…、実は何度も移転を繰り返しているんですよね。さらに、当時は線路の位置や高さが現在とは違うときたもんだ。なので、解説が大変だなぁと思いまして…。

読者の皆さんはもっと大変かと思いますが…。

 

 

今回も地図と年表を用意したので、ぜひご活用ください!

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線)
※位置は極楽寺停留場のみ反映, [n]=n代目

 

極楽寺停留場 年表①】
M37.4.1 (1904)
追揚-極楽寺間延伸に伴い開業
M45.4.26(1912)~T4(1915)
極楽寺山門前に移転
T8(1919)~S3(1928)
20m程藤沢寄りに移転
S14.12.6 (1939)
安全のため、停留場を約100m藤沢寄りの軌道専用敷地内に移転認可(9月竣工)
極楽寺待避線(車庫前)と統合し、行違い可能な構造に
・ホーム新設

 

上図のように、停留場は少なくとも4回移転しています。今回は、初代・2代目・3代目停留場を紹介します。

 

1.初代停留場

長谷駅を出発した電車は、権五郎社前を経て極楽寺トンネルをくぐり、極楽寺駅に到着します。現在は極楽寺のすぐ近くにありますが、初めはもっと先の、車庫の前の辺りにあったようです。

現在の様子で考えると、この位置になります。

稲村ヶ崎4号踏切(車庫脇)より
黄線は旧線, 赤点は旧駅位置(推定)

で、なぜこの位置と推測したかというと…
①地名(小字)
②距離(キロ数)
③運賃
から判断しました。少々長くなる予感がするので、詳細は別途記事にします。多分。気が向いたらやる。

書きました。

 

時期は不明ですが、停留場は少なくとも大正4(1915)年までに、極楽寺山門前に移転します。

 

2.2代目停留場

大正8年の鎌倉町の地図(一部)

こちらは大正8年の地図。現在トンネル出口付近にある、線路の南北(図の上下)を結ぶ橋(桜橋)がありません。代わりに踏切らしきものが描写されており、その脇に停留場も描かれています。

 

さて、「踏切」とはいっても…

▲桜橋より

この通り、擁壁が高すぎて踏切なんか到底設置できそうになさそうですねぇ…。

 

先ほどもちらっと書きましたが、実は、昔は線路の位置も高さも違ったんです。つまり、線路がより高い場所を通っていたので、踏切で連絡していたというわけです。

で、その踏切がどこにあったのかというと…

昭和16年当時

図の真ん中辺りにある、線路と交差する「(」型の道。これが踏切の端に該当します。

 

昭和16年当時(赤線は道)

少しわかりやすくするために、道を赤枠で囲んでみました。踏切は網掛け部分です。極楽寺坂から続く道(現在の駅前の通り)、極楽寺前の道、踏切左側から伸びる道はいずれも現存するのでこれで踏切の位置がわかりますね。

ただし上図は旧経路なので、参考までに新経路(現在のものに近い線路位置)もわかるようにしておきます。

▲線路新旧比較(新線は赤線)

 

そして、停留場はこの踏切の長谷寄りにあったので、以下のようになります。

▲2代目停留場(黄線は旧線)

新旧経路の交差する少し手前がおそらくそうでしょう。思ったより柵に近づきすぎて写真を撮ってしまったので、実際はもう2,3mくらい後側かも…。
なお、ここでは便宜上新旧経路が同じ平面上にあるように表現していますが、実際は旧経路はホームくらいの高さを走っていました

 

さて、この2代目停留場について、少し面白い話が残っていまして。極楽寺の住職さんによると、「昔聞いた話では、『山門をくぐって数段降り、道を横切ってからまた数段下ると土盛のホームがあった』らしい」とのこと。ホーム…だと…!?

「土盛」とはいっても、流石に土オンリーではなく、下のような、中が土で外が石のホームだったんじゃないですかね。

▲(旧)由比ヶ浜停留場(鎌倉市中央図書館蔵)

この頃のホームは十数メートル程度だったので、踏切脇からホームがあったとすると、ちょうど山門の前にホームがあることになります。この証言が、2代目停留場の位置を確固たるものにしていますね。

 

ところで、先ほど、大正4(1915)年までに移転したと書きましたが、どうしてそういえるのかも説明しておきます。

▲停留場間距離表(大正4年)

これは大正4年に停留場の改称・新設を行った時の資料で、各停留場間の距離が「尺貫法」で表記されています。単位は「間」を用いているため、通常であれば1.818倍すればメートル換算できます。
が、実際に計算してみるとわかりますが、この江ノ電の尺貫法はあんまり当てにならない。ということで、比(内分)を利用してみたところ、多少の誤差はあるものの概ね正しい数値に近づくようになりました。

で、極楽寺についてやってみたところ、明らかに初代位置ではない数値(お寺の付近)を示したので、これまでに移転したんじゃないかというわけです。

 

3.3代目停留場

2代目停留場はその後、約20m藤沢寄り、踏切内部に移転します。正確な移転時期はわかりませんが、大正8(1919)年から同10(1921)年の間とみられます。

今昔マップより

その根拠がこれ。大正10年陸地測量部(現:国土地理院)測量の地図です。停留場が踏切の南(藤沢)側に描かれているのがわかると思います。実際には踏切の内部のはずですが(下図)、その中でも藤沢寄りなので、まあセーフでしょう。

▲2代目・3代目 位置関係

 

とはいえ、この大正10年の地図には時系列的におかしな所がちょいちょいあるんですよねぇ…。もしこれが正確でなかった場合でも、下の資料からして、少なくとも昭和3(1928)年までに移転したことになります。

昭和3年極楽寺停留場

 

ちなみに、この3代目停留場は踏切内にあったため、当然ホームはなかったようです。そして踏切内にあったため、安全面の観点から、移転が決定されます。

 

余談ですが、金子晋著『江ノ電沿線今昔漫筆』には「今の駅の向い側の山際にあった藁葺の人家が停留所の役目を果していた」とあります。これはこの3代目停留場の事で、「藁葺の人家」は先ほどの図の、赤丸の右上にある建物がそうじゃないですかね?

踏切の中にあって目印が何もなかったので、人の家を停留場の目印代わりにしていたなんて、面白い話ですねぇ。

 

以降は次回に解説します。 

 

4.名所案内 —紫陽花と海の見える寺—

それではおまけパートへ。今回紹介するのは「成就院」です。成就院極楽寺坂のすぐ真上にあり、景観の大変良い場所として知られています。

 

▲東側入口(左)

極楽寺坂の中腹(西側)と坂下(東側)にそれぞれ入口があり、階段を上っていきます。当然ながら、坂上からの方が段数が少ないです。

 

成就院 本堂

階段を上って門をくぐると、本堂があります。見てまわる部分は少ないですが、雰囲気はバッチリです。紫陽花シーズン以外は比較的静かなので、落ち着いた雰囲気を独り占めできるかも…!?

 

▲門前より由比ヶ浜を望む

そして、成就院といえばやっぱりこれですよ。6, 7月はこれに加えて、階段に沿って植えられた紫陽花が参道を彩り、抜群の見応えがあります。秋季の写真で申し訳ない…。

 

では最後に、成就院について。

成就院真言宗大覚寺派の寺で、本尊は不動明王立像です。鎌倉時代・承久元(1219)年、北条泰時の創建と伝えられています。元弘3(1333)年の鎌倉攻めの際には兵火に遭い、西ヶ谷(にしがやつ, 極楽寺の裏)に移ったものの、その後江戸時代・元禄年間(1688~1704)に旧地(現在地)に戻されたそう。

 

それでは、今回はこの辺りで。( _ _)

 

前▶ 権五郎社前
次◀ 極楽寺 その2