ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#13 極楽寺 その2 —あの駅舎はいつできた?—

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ

今回も前回に続いて、極楽寺駅の歴史について解説していきます。

 

 

今回も地図と年表を用意したので、ぜひご活用ください!

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線)
※位置は極楽寺停留場のみ反映, [n]=n代目

 

極楽寺停留場 年表②】
S14.12.6 (1939)
安全のため、停留場を約100m藤沢寄りの軌道専用敷地内に移転認可
極楽寺待避線(車庫前)と統合し、行違い可能な構造に
・ホーム新設(15m)
S16.6.3 (1941)
極楽寺地内の軌道改良認可(S15.12.1申請, S17.12.13着手)
・線路切替および待避側線延長
・ホームの向きを変更
・下りホームの幅を2mに拡幅
S20.6.26(1945)以降
・路盤を掘り下げ、線路の高さを変更
・待避線撤去
S21.8.15(1946)~S23(1948)
移転, 駅舎建築

 

今回は、4代目停留場と、5代目(導入)を紹介します。

 

1.行違い可能に(4代目停留場)

前回解説した通り、3代目停留場は踏切の中にありました。そのため、安全面の観点から移転が決定されます。その際、隣にあり、行違い設備を有していた極楽寺待避線(車庫前停留場)」と統合され、行違い可能な構造となりました。

昭和16年極楽寺停留場(図面を基に筆者描画)
※線路は太線

線路上に示している赤点のうち、右側が3代目、左側が4代目です。4代目停留場の近くに「変電所」がありますが、この跡地は現在「タンコロ」の収納されている小さい車庫になっています。

▲「タンコロ」が保存されている車庫

 

稲村ヶ崎4号踏切(車庫脇)より、長谷方面を望む
黄線は旧線, 赤線はホーム, 赤点は旧駅位置

したがって、上図のようになります。待避線(右側)は車庫の端の辺りから分岐して、現駅舎の辺りで収束します。

 

▲青線が小道

地図で確認するとわかりますが、車庫横の赤屋根の民家の手前に小道があります。この小道のすぐ前にホームがありました。

 

工事が認可されたのが昭和14(1939)年の12月なので、実際にこの状態になったのは翌昭和15(1940)年の初め頃でしょうね。もちろん、ちゃんと認可後に工事が行われたことが前提ですが…。

しかし、その年の暮れに、再度停留場変更の申請書が提出されます。

 

2.経路変更

それが「経路変更」です。昭和16(1941)年6月認可、同17(1942)年12月着工なので、竣工は昭和18(1943)年の初め頃でしょう。下図のように、崖を掘削し、線路が大きな一本の弧を描くように改修されました。

現在の線形に非常に近いですが、若干異なっています。また、高さは変わっていないため、引き続き踏切が設けられています。

昭和18年極楽寺停留場(図面を基に筆者描画)

変化をわかりやすくするために、新旧対比図も載せておきます。

▲新旧線路対比(赤線が新線)

※変化がわかりにくい場合は、印刷するなどして直接比較してみると良いかもしれません。

 

この工事は、
①急曲線の緩和
②待避側線の延長
③道路敷と軌道敷の分離
を目的として行われました。

 

①は運転と線路の保安のため、③は地形による勾配・見通しと、年々増加する道路交通量を考慮したために行われました。では、②は?

これについて、資料には「乘降客ノ利便ヲ圖ラントスル」としか記されていませんでした。これは推測になりますが、当時は車輌を連結させずに「続行運転」という形態を採っていたため、待避線を延長することで、間隔が開いた複数の車輌を同時に側線に進入させ、スムーズな行違いを実現しようとしたのではないでしょうか?

 

なお、この工事に伴いホームの向きが変更されていますが、中心位置の変更はされませんでした。よって、ここでは線路切替え後も4代目として扱いました。

 

3.路盤掘り下げ

さて、これまで何度も「極楽寺周辺の線路は、現在とは位置と高さが違う」と説明してきました。では、この「高さ」はいつ、どうして改修されたんでしょうか?

まずは「なぜ」の部分。この工事に関する資料がないので正確には不明ですが、極楽寺の住職さんによると、「坂を登りきれない車輌がいたらしい」とのこと。

「坂」というのはトンネル付近のことで、この辺り(権五郎前-トンネル藤沢側出口)は1/40(=25‰)と当時最もきつい勾配だったため(現在は石上-藤沢間※)、馬力不足だとトンネル出口から進まないなんてこともあったそう。こうなると、坂を戻って再度登り直したとかなんとか…。
おそらく、車輌の老朽化や、太平洋戦争で鉄道に回せる労力や物資が減少したことが原因でしょうね。

 

※現在の最急勾配は江ノ島駅付近の39‰で、その下に権五郎前(37‰)、藤沢高架橋(35‰)と続くようです。2023.4.7訂正・追記

 

では「いつ」行われたのかについて。これについて、
①桜橋
②ダイヤ
の2点から考えてみました。

 

まずは①桜橋。前回ちょろっとでてきましたが、桜橋とは、トンネル出口付近にある、線路の南北を連絡する赤い橋のことです。

▲桜橋, 下を線路が通っている

線路が高いうちは踏切で連絡できましたが、これを低くすると橋が必要になりますね。そこで架けられたのが桜橋です。ただ、この桜橋…

昭和32(1957)年製なんです。この時にはもうとっくに工事は完了してるはず…。

実は『江ノ電沿線今昔漫筆』にもある通り、現在の橋が架かる前に仮橋が架けられていたそうなんです。

 

▲「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」より, 筆者加筆
[1946/8/15, 横須賀]

実際に米軍撮影の航空写真を見てみると、仮橋らしきものが架かっているのが確認できます。ということは、この時点ではすでに工事中だということではないでしょうか?
ちなみに、半年前(S21.2.15)撮影の航空写真にも写っていたので、この頃には工事も中盤~終盤といったところでしょうか。

ところでこの航空写真、解像度があまり良くないので、工事方法や工事状況がよくわからないのが痛いですねぇ…。

 

 

次に②ダイヤから。まぁ、これは補足的なものですが…。と、その前に。

和田塚海岸通(由比ヶ浜)もそうですが、江ノ電のかつて行違い可能だった駅には、終戦頃に待避線が撤去された所がいくつかあります。この流れであれば当然、極楽寺の待避線もそれに含まれます

で、これを知ったうえでダイヤについて考えてみます。まず、戦前の江ノ電は10分間隔でした。これが昭和21(1946)年7月に15分間隔に、昭和25(1950)年7月に13分間隔になり、昭和27(1952)年4月に現在の12分間隔になっています。今度のダイヤ改正で14分間隔になるみたいですが…。

ここで注目すべきは、10分→15分と、昭和21年の改正で大幅に間隔が開いたこと。もちろん車輌の不調などもあったとは思いますが、やはり行違い場所の削減が理由としてあったのではないでしょうか? あるいはその逆で、15分間隔にしたから待避線を削減したとか…?

 

よって、この工事は昭和21(1946)年頃に行われたと結論付けられます。

いやしかし、どうやって掘り下げたんだこれ…。おそらく仮線を敷いた(あるいは待避線を流用した)と思うんですが、極楽寺山門前からトンネルまでは両側が崖でスペースがないんですよね…(一応旧線の分だけスペースはありますが、仮線を敷くには狭すぎる…)

 

4.移転・駅舎造成(5代目駅)

正確な時期はわかりませんが(路盤掘り下げ工事の完了直後くらい?)、車庫付近の変電所前にあった4代目駅から、現在の5代目駅位置に移転します。またその際、駅舎が建築されます。

その「駅舎」というのがこちら。

極楽寺駅旧駅舎

もはや江ノ電を代表する建築物のひとつともいえる、この駅舎。ちなみに現駅舎は後ろの建物で、こちらは旧駅舎です。

 

この通り土木学会選奨土木遺産」にも認定されています。説明によると、昭和10年代の建築様式だそう。国鉄やJRの駅であれば、「建物財産標」が貼られているのですが、私鉄にそういった規則や伝統はないようなので、正確な竣工日はわかりません

ただ、移転と同時に建てられたと考えれば、昭和20年代頭であることは確かでしょう。事実、昭和29(1954)年12月測量の地図には、駅舎が記してありました。

 

駅舎の様子含め、以降は次回に解説します。

 

5.名所案内 —姿を変えた激戦地—

それではおまけパートへ(もうお腹いっぱい。特に筆者が)。今回紹介するのは「極楽寺」です。極楽寺切通鎌倉七口(出入口・切通)のひとつに数えられており、中世から交通の要所であったことが伺えます(※ただし、七口が通称されるようになったのは江戸時代から)

永仁6(1298)年以前、極楽寺を開山した忍性が開いたと伝わっており、そのため極楽寺坂の名が付いたとされています。元弘3(1333)年の鎌倉攻めの際には北条による堅固な防衛線が張られ、激戦地となったといいます。

 

極楽寺坂(坂の下より)

とはいえ、こんな緩やかな坂で本当に要塞の役割が務まったんでしょうかねぇ…?

実は、現在の坂は明治・大正期に掘削した結果なんです。上画像の中央左上の辺りに成就院の門が見えますが、地面から大分高い位置にありますよね? 昔はあの高さを道が通っていて、傾斜はきついし道は悪いし…といった感じだったそう。
それが今となっては舗装もされ、車もスイスイ通れるほどになってしまうんですから…。

この緩やかな坂はさも長閑な雰囲気を醸し出していますが、かつては要塞の門として機能し、多くの人々が流血したことを知っていると、見方が変わるのではないでしょうか?

 

それでは、今回はこの辺りで。( _ _)

 

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