ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#10 長谷 —110年以上不動の駅, 鎌倉最古の神社の最寄駅—

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ

最近忙しくて全然投稿できていませんが、失踪は(多分)しませんのでご安心を。

 

では、今回紹介するのはこちら。今シリーズ中3つ目の現役の駅になります。

長谷(はせ)駅です。

 

 

今回も年表を用意したので、ぜひご活用ください!

 

長谷駅 年表】
M40.8.16 (1907)
極楽寺~大町間延伸に伴い開業
T9.6.26 (1920)
引込線敷設およびホームを一部増設指令(5.15申請)
T10(1921)頃~S2.2(1927)
・駅舎改築
北側ホームに上屋及び待合室設置
S2.2(1927)~S4(1929)頃
駅舎の待合室部分を拡築
S4.4.18 (1929) 
ボギー車導入のため、線路中心・ホーム擁壁間の幅員を拡張認可(S3.8.22届出→申請)
※S3.8.22に工事実施の届出をしたが、認可申請が必要な事項であったため、届出書を申請書として処理し、S4.4.18に改めて認可が下された。
S8.6.13 (1933)
駅舎に下家増築届出
S17(1942)以前
駅舎横に倉庫を増設
S28(1953)以前
ホーム上の待合室を撤去
S28.3 (1953)
長谷駅構内の分岐器を改良
S41(1966)~S43(1968)
引込線を撤去
S43 (1968)
落雷による火災で駅舎が焼失したため、駅舎(改札口)を南側に移設
S43.8.4 (1968)
旧駅舎跡が駐車場になる
S51.9.1 (1976)
自動券売機設置
S55.4.15 (1980)
長谷駅の踏切脇に、無改札者侵入防止用の三角ブロックを敷設
S56.2.23 (1981)
重連」の行違いを可能にするため、長谷駅の藤沢側ポイントを交換
S56.4.29 (1981)
長谷駅ホーム延長, 使用開始
S60.5.27 (1985)
新駅舎営業開始
S60(1985)頃
ホーム上屋を改築
R1.5 (2019)
仮駅舎に移行
R2.4 (2020)
新駅舎竣工, 営業開始
R5.1.23 (2023)
臨時出口を常設化

 

1.場所も名前もそのまんま

江ノ電の駅(全15駅)のうち12駅は明治・大正初期からずっとある駅で、とうに110歳を越えています。しかし、それぞれ事情に合わせて位置や名前を変えているので、昔から同じというわけではありません

そんな中、なんと開業時から110年以上もの間移転や改称をしていない駅があるんです…!

 

まずは移転していない駅。これは江ノ島・長谷・和田塚の3駅のみです。起終点の藤沢や鎌倉でさえ移転してるんですよねぇ…。そして主要駅にしれっと混じる和田塚駅

次に改称していない駅は、藤沢・鵠沼極楽寺・長谷・和田塚の5駅です。かの有名な江ノ島駅は、昭和4年までは片瀬(かたせ)という名前でした。

これらのうち、更に路線開業時からある駅に限定すると…、長谷駅のみになってしまうんですね(ちょっと強引ですけど…)

 

つまり、長谷駅は明治時代からベストポジション・ベストネームだった唯一の駅ということになりますね。

もちろんすべての歴史を知っているわけでも、すべての資料を閲覧したわけでもないので、確認できる限りで、ですけど。

 

2.4度の駅舎改築が行われた!

今回のサムネイルにもなっている現駅舎ですが、これは最近改築された5代目駅舎です。ここでは、改築された初代以降の駅舎を紹介していきたいと思います。

 

①初代

▲『江ノ電八十年表』より

まずは初代駅舎。画像は大正10(1921)年頃撮影のものです。公文書の図面から判断して、昭和2(1927)年2月までに改築されたと推測されます。
後述しますが、右側の列車が停まっているのは当時あった引込線です。
※元写真自体の著作権は切れているので掲載しましたが、問題があれば削除します。

 

②2代目

昭和2年の長谷停留場(図面を基に筆者描画)

続いて2代目。改築と同じ頃に、北側ホームに屋根(図の破線)と待合所が増設されています。

この2代目駅舎は後に一部増築されていまして…。

昭和17年の長谷停留場(図面を基に筆者描画)

それがこちら。ちょっとわかりにくいですかね…?

 

この赤い部分が増築されました。あと倉庫も。
待合室の分だけグッと拡げた感じでしょうね。

 

▲S4年頃, T氏映像(鎌倉市中央図書館蔵)より

これが増築後の駅舎の様子。前回紹介したT氏撮影の映像の切り抜きで、道路側に飛び出した箇所が写っています。この映像が昭和4年頃のものなので、これまでに増築が行われたことがわかります。

なお、昭和8(1933)年に下屋(げや)増築の届出がされていますが、この増築を遅れて届け出た(忘れていた)ものなのか、別件なのかはわかりません。

 

▲末期の2代目駅舎(鎌倉市中央図書館蔵, S41.1.16)

そしてこちら、終戦の写真で、末期の2代目駅舎の様子。先ほどの写真を見てもわかる通り、車寄せの下はかつて待合所の一部でした。

さて、この2代目駅舎ですが、上の写真が撮影された2年後の昭和43(1968)年に、落雷により焼失してしまいます。全国広しといえど、雷の落ちた駅はわずかでしょうな。

 

③3代目

▲2代目駅舎跡地(鎌倉市中央図書館蔵, S43.9.2)

2代目焼失の後、駅舎は南側(上写真の奥側)ホームに移ります。なお、旧駅舎の跡地は、同年の8月に駐車場として整備されました。

▲赤電と3代目駅舎(野口雅章氏提供, S46.3)

3代目駅舎は独立した本屋がなく、改札口と切符売場のみだったようです。上画像は江ノ電FC初代会長の野口氏撮影の1枚で、昭和46(1971)年のもの。上屋の妻面に「長谷駅」と書かれたプレートを掲出しているだけですが、これでも主要四駅の一つなんですよねぇ…。

なお、画像の列車は東急からやってきた600形(左が601+602, 右が603+604)で、当時は赤とクリームの配色だったため「赤電」と呼ばれていました。

 

長谷駅3代目駅舎(野口雅章氏提供, S48.5.26)

同じく野口氏提供の写真で、駅舎をアップで撮ったもの。屋根の下に駅務室の建物が確認できます。

▲タンコロと3代目駅舎(野口雅章氏提供, S55.12)

しばらく経った、昭和55(1980)年のタンコロ引退間際の頃のもの。後年になっても、やっぱり駅舎の建物はなかったようですね。

そして現在の様子。左半分はホームの延長スペースに、右半分は関係者用出入口(階段)と臨時出口(スロープ)に充てられました。

【2023.2.6追記】
2023年1月23日、臨時出口が常設化されました。詳しくはこちら

 

3代目駅舎のあった2番線(藤沢方面行)ホーム。画像中央付近のホームの色が変わっている箇所は、ラッチ(改札柵)の跡と思われます。

 

3代目駅舎は、昭和60(1985)年、2代目跡地に再築された4代目駅舎に機能を移して役目を終えました。

 

④4代目

▲4代目駅舎(どちらも筆者撮影, H31.3.5)

17年の時を経て、再び北側に戻ってきた駅舎。改札横(2枚目画像の左側)にはキャンドゥが入居しており、観光客の便宜に供していました。
4代目駅舎は34年間使用され、令和元(2019)年に解体、5代目に向けた仮駅舎に切り替わりました。

余談ですが、この写真は沿線を「歩鉄」していた時に撮ったものでして。当時は建替えの話を知らなかったので、まさか同年のうちに解体されるなんて思ってもいませんでした…。

 

⑤5代目

▲5代目仮駅舎(筆者撮影, R1.8.20)

4代目の解体と5代目の建設工事が行われる間、かつての駅前広場に仮駅舎が設置されました。改札の位置に変更はありませんでしたが、窓口や券売機はこちらに移されました

 

▲5代目駅舎(筆者撮影, R4.2.15)

それから約1年後、令和2(2020)年4月に完成したのが現在の5代目駅舎です。「絵はがきになる江ノ電へ」をコンセプトに進めてきた改修計画の1つで、公式プレスリリースでも「地域の自然・文化・歴史を感じさせる駅舎」と紹介されています。

なお、キャンドゥは同年6月30日付で閉店し、現在はタリーズになっています。

 

3.引込線があった!?

現在、長谷駅はホーム2面・線路2線の行違い可能な構造をしています。が、昔は鎌倉方面行ホームの裏側にもう一本線路がありました(下図)。これは鎌倉-長谷間の区間運転用に、大正9(1920)年に設けられたものです。当時何と呼ばれていたかはわかりませんが、1番線の裏にあったので、0番線とでも呼ぶべきでしょうか?

昭和17年の長谷停留場(図面を基に筆者描画)

現地の写真と合わせると、こんな感じ。

▲長谷2号踏切より(赤線が引込線)

引込線があった所はホームがすぼまっていて、なんとなく痕跡を感じられます。下の画像じゃちょっとわかりにくいですが…。

▲引込線の跡地

この引込線がいつなくなったかは不明ですが、どうやら昭和38(1963)年から43(1968)年の間に撤去されたようです。というのも、とあるサイトに載っている写真には引込線が写っていて、野口氏が駅舎移転時(昭和43年)には無かったはずだと証言しているんです。

聞き込みをしても、「気付いたらなくなってた」という回答が多いので(まぁ大体そんなもんでしょうけど…)、時期の特定が難しいんですよねぇ…。

 

【2023.5.24追記】
昭和41年度版の明細地図(S42年発行)に記載されているのを確認したので、撤去は上記のものをもう少し狭めた、S41(1966)~43(1968)年の間と推測されます。

 

4.名所案内

それではおまけパートへ。長谷といえば観音(長谷寺)や大仏(高徳院)が有名ですが、それらの現地レポは腐るほどあるでしょうから、ここではあえて紹介しません。

 

長谷寺 —「長谷」の名の由来—

まずは長谷寺についてです。

…さっき言ってたことと矛盾してるじゃないの。

いや、歴史の紹介をしないとは書いていないはずです(強引)。実はこの長谷寺、この一帯の長谷の集落に大きく関わっていまして。それを紹介したいんですよ。

 

さて、副題にもありますが、長谷駅のある「長谷」の由来は何なんでしょう? それはズバリ、長谷寺です。長谷寺があるから一帯が長谷と呼ばれるようになったんです。

それでは何で長谷寺長谷寺というんでしょう? 長谷寺といえば、皆さんご存知(かどうかはわかりませんが)奈良にも同名の長谷寺があります。実はこの2つの長谷寺には切っても切れない関係がありまして。

かまくら子ども風土記』では、以下のように述べられています(筆者要約)。

 

 「養老5(721)年、徳道という有名な僧が奈良県(当時は大和国)の山奥にあった巨大なクスノキで観音様を造ろうとしていた。やがてこの話が元正天皇に伝わると、天皇は費用を贈って当時の名工である稽文会(けいもんえ)と稽首勲(けいしゅくん)に観音像を造らせた。この時クスノキは二分され、二体の観音像になった。その後徳道は、根本側で造られた像を大和に留めて長谷寺に祀り、先端側で造られた像を、縁ある地へ行って民衆を救うようにと願って海に流した。15年後にこれが相模国三浦に流れ着くと、鎌倉へ移され、徳道を開山に迎えて建てられた長谷寺に祀られた」

 

つまり、奈良と鎌倉の長谷寺は生き別れの観音像を祀っており、兄弟関係にあるということになりますね。 

この伝承によると、鎌倉の長谷寺天平8(736)年に始まったそうですが、あくまでも伝承ですので、実際のところは不明です。当寺に伝わる鐘に文永元(1264)年とあるそうなので、鎌倉時代末期には成立していたと言えます。

 

なお、奈良の長谷寺の方は所在地「初瀬(はせ)」に由来するといいます。「初瀬」は元々「はつせ」と読まれていたようですが、促音便で「はっせ」となり、やがて「はせ」となったといいます。

 

長くなりましたが、まとめると、鎌倉の地名「長谷」は付近の長谷寺に由来し、その長谷寺は奈良の長谷寺に由来する。そして奈良の長谷寺は、地名「初瀬」に由来する、ということになりますね。また、「長谷」を「はせ」と読むのも、元が「初瀬」だからだと考えられます。

 

②甘縄神明宮 —「長谷」以前—

前項で、長谷寺があるから「長谷」と呼ばれるようになったと書きました。では長谷寺の建立前はどうだったんでしょう?

答えは「甘縄(あまなわ)」です。現在も駅から半キロくらいの所にある「甘縄神明宮」を中心としていたそうです。「甘」は海女を、「縄」はそのまま漁で使用する縄を指すという見解があります。

 

これがその甘縄神明宮。

鳥居は「神明鳥居」という形で、大正2(1913)年建造のものです。

社蔵の縁起略によると、和銅3(710)年行基僧の創建だといいます。これが本当なら鎌倉で最古の神社(鶴岡八幡宮より300年以上も古い!)になります。もしそうでなくとも、鎌倉時代の書物に散見されるので、古社に分類される事は確かでしょう。

 

現在の社殿は、大正12(1923)年の関東大震災の後、昭和12(1937)年9月に再建されたものです。本殿・幣殿・拝殿(上画像)のほか、境内には秋葉社(拝殿に向かって右)や五所社(同じく左)があります。

 

その秋葉社の脇にある鳥居から続く山道を行くと、木々の隙間から由比ヶ浜と長谷の街並みを望める景観スポットに辿り着けます。

 

まぁ、根っこの階段を行く道なので、あまりオススメはできませんが…。崖下への落下の危険もありますし。
足腰に少し自信のある方は、自己責任で行ってみると良いかもしれません。

 

なお、拝殿のある場所からでも眺めは十分良いです。

 

「長谷」が主流になった後も「甘縄」の地名は残り続けたようですが、現在では甘縄神明宮に残るのみで、全くと言っていいほど見えません。

 

③三橋旅館 —鎌倉随一の高級旅館—

▲三橋旅館(鎌倉市中央図書館蔵)

▲大正8年の鎌倉町の地図(一部)

三橋旅館はかつて長谷に存在していた旅館です。長谷観音前の交差点から長谷駅のすぐ北の辺りまで、3000坪(約9900㎡)以上もの広大な敷地を誇っており、海浜院と並ぶ高級旅館だったそうです。

江戸末期からあり、文化6(1809)年にはすでに宿屋を営んでいたようです。その頃は江ノ電も無かったため、敷地は海岸まで続いており、専用の海水浴場もあったとのことです。

当旅館のご子孫の方によると、敷地面積を10000坪(約33000㎡)とする資料もあるようですが、きっとこの頃の事でしょうね。資料が無いので何とも言えませんが、個人的に最盛期はもう少し広かったんじゃないかと思います。

 

明治になると、伊藤博文原敬福沢諭吉など、歴史に名を遺す著名人も数多く宿泊していったといいます。これにより、鎌倉・長谷の良さが広く伝わっていったことでしょう。おまけに、東海道線横須賀線江ノ電の開通により交通の便も良くなっています。となれば、三橋旅館も大繫盛…かと思いきや…。

大正になると宿泊ではなく各自が別荘を持つようになってしまい、かえって経営不振に陥ってしまったようです。それでも規模を縮小して経営していたようですが、関東大震災によりほぼ全焼してしまい、ついに終焉を迎えたそうです。

 

三橋旅館は、一生を懸けて鎌倉や長谷の良さを全国に知らしめていった、鎌倉の近代史を語るうえで外せない旅館だったんですねぇ…。

 

現在も大通りには旅館の名の由来となった「三橋」が架かっており、旧橋の欄干が残っています。残念ながらこの旧橋は震災後の大正15(1926)年4月に架け替えられたものなので、旅館を見ていません。

とは言え、この「三橋」の名が残り続ける限り、三橋旅館の事も含めて「旧き長谷」を後世に伝えていってくれることでしょう。

 

では、今回はこの辺りで失礼します。( _ _)

 

前▶ (旧)由比ヶ浜
次◀ 権五郎社前