ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#15 車庫前 その1 —非公式な停留場—

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ

気が付けば4月も終わりに近づいています。早いものですね…。さて、今回は久しぶりに駅史の解説を進めていきます。

 

今回紹介するのはこちら。

車庫前(しゃこまえ)停留場です。

駅名標っぽいのを作ってみましたが、サムネ画像の出来は相変わらず…。

 

 

今回も地図と年表を用意したので、ぜひご活用ください!

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線)
※位置は極楽寺待避線のみ反映, [n]=n代目, なお初代は明記せず

 

極楽寺待避線 年表①】
M37.3.5 (1904)
鎌倉郡鎌倉町大字極楽寺字迎山地内に待避線を設置認可
T1.9.21 (1912)
行合昇降場の待避線を鎌倉郡鎌倉町大字極楽寺字迎山293番地内(極楽寺昇降場際, 藤沢起点4210間3分より4253間6分)に移転指令(M45.4.26申請)
=2代目待避線設置
T2.1.22 (1913)
M37.3.5認可の極楽寺字迎山地内の待避線を鎌倉郡腰越津村大字津字池廻り1307番ロ号の1地内(峯ヶ原昇降場)に移転指令(T1.10.24申請)
=初代待避線撤去
T7.5.11(1918)以前?
撤去

 

今回は、初代と2代目を紹介します。

 

1.概要

さていきなりですが、この車庫前停留場は、実は停留場ではなかったんです。
というのも、正式には「極楽寺待避線」といって、現在鎌高前駅の付近にある峰ヶ原信号場のように、行違いのみを行う施設とされていたんです。

が、以前記した通り、当時の江ノ電では割と自由に乗降が行われていたそうです。ここでは行違い待ちのため列車が停車しているので、なおさらそういった事が起こりやすく、やがて停留場同様に利用されるようになり、通称「車庫前停留場」が誕生したものと思われます。

 

2.初代待避線

そんな極楽寺待避線ですが、意外にも路線延伸時(明治37, 1904年)から存在していました。極楽寺に車庫ができたのは明治45/大正元(1912)年なので、当時は「車庫前」の通称はなかったはずです。ちなみに、開業時から関東大震災までは片瀬(現:江ノ島)に車庫がありました。

位置は、残念ながらよくわかっていません。初代極楽寺同様、別途推測の記事を書きますので、詳細はそちらで。

書きました

 

この初代待避線は、大正初めに峰ヶ原停留場(現在の七里ヶ浜駅付近)に移転します。移転とはいっても、実質的には撤去と新設ですが。おそらく、「移転」と書いた方が「同じ規格のものを作りますよ」と伝えやすいため、こうしたものと思われます。

 

3.2代目待避線

初代待避線と入れ替わるように設置されたのが、2代目待避線です。先の年表に記したように、初代の撤去と2代目の新設は、資料上は数ヶ月の差があります。が、これをそのまま捉えてしまうと交換所間の距離が大変なことになってしまうので、おそらく工事は同時期に行われたものと推測されます。

なお、初代を峰ヶ原へ移したのと同様、こちらは行合停留場(七里ヶ浜プリンスホテル下にあった)から移設してきたものとされています。が、これもそのままの意味で捉えてしまうと、無駄にレールを移送することになります。書面上でわざわざ面倒な作業をしているのも、やはり規格の問題でしょう。実際、2代目極楽寺待避線の長さは45.3間(他は30間)で、かつ行合停留場の待避線も他より少し長かったようです。

 

尺貫法なので誤差はあるでしょうが、車庫脇の踏切の辺りから分岐し、現駅舎の辺りで収束していたものと思われます(中心位置はタンコロ車庫の前)。図面資料がないので、推測になりますが…。

▲2代目待避線(推測)
引込線は車庫

稲村ヶ崎4号踏切(車庫脇)より、長谷方面を望む
黄線は旧線, 赤点は待避線中心位置

↑現在の様子に合成すると、こんな感じ。

 

 

▲待避線位置変更認可願(明治45年)

なお余談になりますが、以前の記事で初代極楽寺停留場が車庫の前にあったとしました。上は今回の2代目待避線設置時の資料ですが、「極樂寺昇降場際」とあります(赤線部)。この待避線が車庫脇にあったことからも、停留場が車庫の前付近にあったことがわかりますね。

 

 

 

さて、極楽寺待避線はこの2代目で一旦廃止・撤去され、昭和初期に再度設置されます(3代目)。詳細な時期はわかりませんが、撤去はおそらく大正5(1916)年頃だと思います。

まずは交換所間の距離を見てみましょう。

2代目待避線の設置された大正2(1913)年時点では、長谷・極楽寺待避線・峰ヶ原・片瀬に待避線があります。片瀬-峰ヶ原間と峰ヶ原-極楽寺待避線間の距離が同じくらいになっているので、この3つで行違いをしていたのでしょう。

これが大正5(1916)年になると…、

峰ヶ原の待避線が大境(旧・行合が片瀬寄りに100m程移転)に移り、間隔の調整が行われました。近い距離になっているのは片瀬-大境間と大境-長谷間なので、おそらくこの時に極楽寺待避線は使用されなくなったのではないでしょうか。

 

そしてもういっちょ。

▲停留場廃止認可申請についての上申書

こちらは大正7(1918)年の資料。腰越の方での停留場廃止に関するものですが、ここで注目したいのは赤いカギカッコでくくった部分。「長谷発の列車が、大境停留場で片瀬発の列車を数分間待つため、不都合だ」という内容ですね。

直接書かれてはいないものの、長谷・大境・片瀬で行違いをしていたとみられるため、やはり極楽寺待避線は使用されていないようです。

 

さて、おまけの話になりますが、ヤジが飛んでくる前に解説しておきます。先ほど片瀬-大境間、大境-長谷間が同じくらいの距離だと示したのに、大境で数分間待つとはどういうことなのか。これ、多分停留場の数が関係しているんだと思います。当時、大境-長谷間の停留場数が7つだったのに対し、片瀬-大境間には12個もあったため、その停車時間の差の分だけ遅くなっていたのでしょう。

 

ともかく、大正5年、遅くとも大正7年頃までには、極楽寺待避線は撤去されたと考えて良いでしょう。同11年時点では、片瀬-長谷間は大境でしか行違いができなかったそうなので、これまでには確実に撤去されています。

 

3代目以降は次回に解説します。 

 

4.名所案内 —歌人の住んだ谷戸

地理院地図に筆者加筆

 

ではおまけパートへ。今回紹介するのは「月影ヶ谷(つきかげがやつ)」です。
月影ヶ谷は車庫の西隣にある奥深い谷戸で、極楽寺駅から車庫の横を通りつつ5分ほど歩いたところにある踏切を渡って行けます。

▲谷入口の踏切より車庫を望む

この谷戸にはかつて、かの有名な鎌倉時代の日記十六夜日記』の作者・阿仏尼が住んでいました。阿仏尼は公家・歌人である藤原定家の子・為家の妻であり、冷泉為相(ためすけ)の母に該当する人物です。京都の生まれ育ちでしたが、為家の没後に彼の正妻の子・為氏と相続問題で争い、幕府(執権・北条時宗)に訴えて裁判を起こすために鎌倉へ下ったのだそう。そしてその裁判の間(約4年間)住んだのがこの月影ヶ谷で、その際記したのが『十六夜日記』というわけです。

 

実際、谷戸のどこに屋敷があったかはわからないようなので、青年団の碑は谷戸の入口(踏切脇)に建てられています。

 

 

さて、月影ヶ谷といえば、実はもう一つありまして…。それが「月影地蔵」です。地図に記した通り、現在は極楽寺奥の西ヶ谷(にしがやつ)にありますが、元は月影ヶ谷にあったものだそう。

▲月影地蔵堂全景

月影地蔵の歴史は古く、なんと極楽寺ができる前からあったそうです(極楽寺は1259年創建とされる)現在のお地蔵様は江戸中期頃、月影ヶ谷から西ヶ谷へ移る際に造られたものだそう。

スケールこそ大きくありませんが、お堂の掃除が行き届いていたり、千羽鶴や立派な額があったりと、地域に愛されて大切にされているお地蔵様です。

 

それでは、今回はこの辺りで。( _ _)

 

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