ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#5 学校裏

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ

このところは蒸し暑かったり肌寒かったりで、毎日大変ですねぇ。台風も続々と発生していますし…。靴の中が大洪水になるのは嫌なので、長雨は勘弁してほしいものです。

 

さて、今回紹介するのはこちら。

学校裏(がっこううら)停留場です。

 

では、いきましょう~!

 

 

地理院地図に筆者加筆

 

1.学校裏停留場

琵琶小路停留場を出て小学校を左に見つつ行くと、細い路地と交差する踏切に差しかかります。学校裏停留場は、この和田塚2号踏切の脇にありました。
ホームはなく、踏切の辺りから直接乗り降りするタイプの停留場だったようです。

▲和田塚2号踏切より(カーブの先は和田塚駅)

前回の琵琶小路停留場(2代目)からの距離は93mで、判明している中では江ノ電史上最も短い間隔です。まさか100m切ってしまうとは…!

さて、この停留場は極楽寺-大町間の延伸と共に設置されました。名称にある「学校」というのは、鎌倉小学校(現:鎌倉市立第一小学校)のことですが…

あれ? 琵琶小路の方が近くない?

地図を見ても一目瞭然。琵琶小路停留場の方が「学校裏」の名にふさわしいじゃないの!ホームの脇に裏門まであったし!

まぁ、琵琶小路は後からできた停留場で、初めはここが学校の最寄りでしたから…。

 

さて、そんな学校裏停留場ですが…、蔵屋敷停留場同様、速力増進のために昭和6年に廃止されてしまいます。廃止時点での一日平均乗車人員は、わずか0.5人でした。1日1人未満なんて、まるで北海道の秘境駅じゃないの…! 鎌倉の市街にあったのに、どうしてこうなった…。

昭和7年の鎌倉町(一部, 筆者加筆)

上画像は、停留場廃止の翌年、昭和7年の地図です。踏切毎に停留場が設置されていたので、各々最も近い通りの停留場を利用していたんでしょうね。
この地図の、学校裏停留場のある通りを見てみると…、通りがスカスカじゃない!
住民の利用があまり無かったうえに、学校のすぐ裏に停留場が新設されたとなると…
いらない子になってしまうのは火を見るよりも明らかです。

学校裏停留場は、後からできたお隣さんに役目を奪われてしまった、悲しい停留場なのでした…。

 

【学校裏停留場 年表】
M40.8.16 (1907)

極楽寺~大町間延伸に伴い開業
S6.10.4 (1931)
廃止(S5.10.21申請, 7.21認可)

 

2.一の鳥居

では、今回も沿線の事を。まずは見出しにある通り、一の鳥居について。

学校裏停留場のある道を南に下っていった付近にあるのが、一の鳥居です。若宮大路には三つの鳥居があり、八幡宮に向かって海岸側から一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居となっています。

▲一の鳥居

さて、この鳥居をよ~く見てみてください。柱にひびが入っていませんか?
実はこれ、崩落の跡なんです。どういうことかといいますと…

▲大正末頃の一の鳥居(鎌倉市中央図書館蔵)

こちらは関東大震災後の写真なのですが…、上が無いじゃないの!

そう。かの大地震は三基とも鳥居を崩落させ、見るも無残な姿にしてしまったのです。なお、震災後はしばらく放置され、一の鳥居が再建されたのは昭和12年とのことです。

二の鳥居・三の鳥居は朱塗の立派な鳥居になっていますが、ここ一の鳥居は石造のままで細工がされていないので、今でもこうして痕跡を見ることができるのです。

 

3.畠山重保の墓

先ほど紹介した一の鳥居のすぐ西脇には、謀反を疑われて殺されてしまった鎌倉幕府御家人畠山重保の墓があります。

▲畠山六郎重保墓塔

横の案内板によると、墓塔は明徳4年(1393年)の造立だそう。600年以上も前のものが残っているなんて、なんだか感慨深いですねぇ。

この塔の若宮大路を背にして左側には、大正11年鎌倉青年団建立の石碑もあります。

▲「畠山重保邸阯」

そしてこの傍らには、白い石柱があります。

▲「六郎茶屋」

読みづらいですが、「六郞茶屋」と掘られています。「六郎茶屋」というのは、明治中~末頃(作家・里見弴が記憶していたので、おそらくこの頃)までこの近辺にあったという茶屋の事です。言わずもがな、店名の由来は畠山重保でしょう。この石柱は当時使用されていたものでしょうか…?

 

まだまだ書きたい事はありますが、一応メインは江ノ電の停留場なので、この辺りで失礼します。次回はいよいよ現役の駅です。それでは~

 

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