どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ
このところは蒸し暑かったり肌寒かったりで、毎日大変ですねぇ。台風も続々と発生していますし…。靴の中が大洪水になるのは嫌なので、長雨は勘弁してほしいものです。
さて、今回紹介するのはこちら。
学校裏(がっこううら)停留場です。
では、いきましょう~!
1.学校裏停留場
琵琶小路停留場を出て小学校を左に見つつ行くと、細い路地と交差する踏切に差しかかります。学校裏停留場は、この和田塚2号踏切の脇にありました。
ホームはなく、踏切の辺りから直接乗り降りするタイプの停留場だったようです。
前回の琵琶小路停留場(2代目)からの距離は93mで、判明している中では江ノ電史上最も短い間隔です。まさか100m切ってしまうとは…!
さて、この停留場は極楽寺-大町間の延伸と共に設置されました。名称にある「学校」というのは、鎌倉小学校(現:鎌倉市立第一小学校)のことですが…
あれ? 琵琶小路の方が近くない?
地図を見ても一目瞭然。琵琶小路停留場の方が「学校裏」の名にふさわしいじゃないの!ホームの脇に裏門まであったし!
まぁ、琵琶小路は後からできた停留場で、初めはここが学校の最寄りでしたから…。
さて、そんな学校裏停留場ですが…、蔵屋敷停留場同様、速力増進のために昭和6年に廃止されてしまいます。廃止時点での一日平均乗車人員は、わずか0.5人でした。1日1人未満なんて、まるで北海道の秘境駅じゃないの…! 鎌倉の市街にあったのに、どうしてこうなった…。
上画像は、停留場廃止の翌年、昭和7年の地図です。踏切毎に停留場が設置されていたので、各々最も近い通りの停留場を利用していたんでしょうね。
この地図の、学校裏停留場のある通りを見てみると…、通りがスカスカじゃない!
住民の利用があまり無かったうえに、学校のすぐ裏に停留場が新設されたとなると…
いらない子になってしまうのは火を見るよりも明らかです。
学校裏停留場は、後からできたお隣さんに役目を奪われてしまった、悲しい停留場なのでした…。
【学校裏停留場 年表】
M40.8.16 (1907)
極楽寺~大町間延伸に伴い開業
S6.10.4 (1931)
廃止(S5.10.21申請, 7.21認可)
2.一の鳥居
では、今回も沿線の事を。まずは見出しにある通り、一の鳥居について。
学校裏停留場のある道を南に下っていった付近にあるのが、一の鳥居です。若宮大路には三つの鳥居があり、八幡宮に向かって海岸側から一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居となっています。
さて、この鳥居をよ~く見てみてください。柱にひびが入っていませんか?
実はこれ、崩落の跡なんです。どういうことかといいますと…
こちらは関東大震災後の写真なのですが…、上が無いじゃないの!
そう。かの大地震は三基とも鳥居を崩落させ、見るも無残な姿にしてしまったのです。なお、震災後はしばらく放置され、一の鳥居が再建されたのは昭和12年とのことです。
二の鳥居・三の鳥居は朱塗の立派な鳥居になっていますが、ここ一の鳥居は石造のままで細工がされていないので、今でもこうして痕跡を見ることができるのです。
3.畠山重保の墓
先ほど紹介した一の鳥居のすぐ西脇には、謀反を疑われて殺されてしまった鎌倉幕府御家人、畠山重保の墓があります。
横の案内板によると、墓塔は明徳4年(1393年)の造立だそう。600年以上も前のものが残っているなんて、なんだか感慨深いですねぇ。
この塔の若宮大路を背にして左側には、大正11年鎌倉青年団建立の石碑もあります。
そしてこの傍らには、白い石柱があります。
読みづらいですが、「六郞茶屋」と掘られています。「六郎茶屋」というのは、明治中~末頃(作家・里見弴が記憶していたので、おそらくこの頃)までこの近辺にあったという茶屋の事です。言わずもがな、店名の由来は畠山重保でしょう。この石柱は当時使用されていたものでしょうか…?
まだまだ書きたい事はありますが、一応メインは江ノ電の停留場なので、この辺りで失礼します。次回はいよいよ現役の駅です。それでは~