ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#2 蔵屋敷

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ

先日、江ノ電は開業120周年を迎えました。今回は、その歴史の約6分の1に当たる、21年間を共にしたこの停留場を紹介します。


蔵屋敷(くらやしき)停留場です。

 

では、いきましょう~!

1.初代停留場

鎌倉停留場を出た江ノ電若宮大路を直進し、横須賀線のガード(鉄橋)に差しかかります。このガードの手前にあったのが、蔵屋敷停留場です。

今回は説明の都合上、先に年表を持ってきます。今回はこの年表と、その下の画像を参照しながら読んでいただければと思います。

 

蔵屋敷停留場 年表】
M43.11.4 (1910)
大町~小町間延伸に伴い開業
T13.5.7 (1924)
藤沢起点5519.5間より同5484.9間に移転認可(4.12申請)
S6.10.4 (1931)
廃止(3.13申請, 7.21認可)

 

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線)

蔵屋敷停留場は初め、ドコモショップのある東昭ビルの前にあり、「鎌倉俱楽部」の最寄り駅として機能していました。鎌倉俱楽部は、本覚寺橋先、現在の東急ストア駐車場の南方の辺りにありました(下地図参照)。

▲大正8年の鎌倉町の地図(一部)

大正4年時点の停留場と周辺(一部筆者加筆)

現在の様子と合わせると、こんな感じになります。トラックの停まっている建物が東昭ビルです。

 

2.2代目停留場

前項の年表と画像にあるように、蔵屋敷停留場は一度移転します。その契機は大正12年関東大震災です。

既述の通り、蔵屋敷停留場は鎌倉俱楽部の最寄り駅として機能していました。しかし、同俱楽部は震災で建物が倒壊し、これを機に解散してしまったのです。

利用者の多くを失ってしまった蔵屋敷停留場。さてどうしようかと途方に暮れていたその時、なんとも都合の良い話が…! 停留場から西方約一丁(110m弱)の位置に、公設市場が新設されるというのです。

新客の匂いがプンプンするぜ…!

こうして、この市場の付近に移ることに決まったのでした。
なお、この公設市場についてですが、一切の情報が不明なのですよ…。大正8年昭和2年の地図(このブログではもはやお馴染みのやつ)を見比べてみて、御成小路の「鎌倉おなり保育園」の辺りにあったのではないかと、位置の予測まではできたのですが…。

 

あくまでもメインは停留場なので、話を先に進めましょう。
停留場の移転先は、横須賀線ガードの直前です(下画像参照)。

▲新旧蔵屋敷停留場(一部筆者加筆)

ガード北の導流帯の中が2代目停留場位置に該当します。

 

さて、蔵屋敷停留場は市場のそばに移り、新たな利用者を獲得した…
かのように思えたのですが、実は利用状況はあまり芳しくなかったようで、昭和6年10月には廃止されてしまいます。なお、この廃止は利用者の少ない停留場を整理するためのもので、同日に計13の停留場が廃止されました。
ちなみに、蔵屋敷停留場の廃止時点での一日平均乗車人員は、わずか2人でした。なんてこったい…。

 

3.蔵屋敷停留場にホームはあったのか

見出しの通りですが、当停留場にホームはあったのでしょうか? 

「駅にホームが無いわけないじゃない!」と突っ込みたくなる気持ちはわかります。が、しかし…

全ての停留場にホームがあったわけではないのです。

当時の江ノ電路面電車で車輌の床が低かったため、ホームが無くても路面から直接乗降できたのです。電柱に駅名板を取り付けただけの簡単な構造をしていたからこそ、39や40も停留場が設けられたのかもしれないですね。
また余談ですが、大半が簡単な構造をしていたため、停留場の位置が定められてはいても、その場所に限らず手を挙げればどこでも乗せてくれたそうです。時代を感じますねぇ…。

というわけで、別にホームが無くても何の問題もないんですね。
では考察に入ります。

まずは初代停留場から。権利の関係で画像は出せませんが、鎌倉国宝館編『特別展 鎌倉震災史 歴史地震と大正関東地震』に収録されている『八幡祠前街圖』という絵図があります。この絵図は震災直後の若宮大路の様子を詳細に描いた図なのですが、初代停留場のある場所には江ノ電の電柱しか描かれていません。つまり、初代停留場にホームは無かったことになります。

では続いて2代目停留場について。
江ノ電昭和3年8月に、当時使用していた車輌よりも一回り大きい型の電車(ボギー車)を導入するために、各停留場のホームを改造しました。つまり、電車がホームにぶつかってしまうのを防ぐために、線路とホームの間を拡張したのです(下画像)。そうなるとホームがある全停留場を変更しなければなりませんから、もしこの時点でホームがあれば、その際の計画図面に載っているはずです。

▲線路中心とホーム擁壁の間隔を拡張
3呎9吋(約114cm)を4呎13/8吋(約125cm)に拡張

しかし、これには載ってなかったのですよ。ってことは、2代目停留場にもホームは無かったようですね。
と、普段ならここで次に進むのですが…

金子晋著『だれも書かなかった鎌倉』には、「(前略)このガード下の北側、かつて蔵屋敷』と呼んだ路面から三十センチほどせり上がっただけの停留所を横に見て(後略)」とあり、ホームがあった事を示唆しているのですよ…。

ということは、昭和3年8月から廃止される昭和6年10月の間に造られたのか…?
しかし、その時期で参照できる資料なんて…

あるんですね~

こちらは、前々回の鎌倉停留場の際に紹介した、昭和4年の線路付け替えならびに停留場移転の図面です。左の方をよ~く見ると…

蔵屋敷停留場(白半円)も少し変わってる!(距離の変更手続きはされていないため、移転ではない)

なるほど! それじゃあ、この時に設置されたんですね!

いや、違うね(´・ω・`) < 何度もこの演出ですまんの

というのも、ホームを造成する場合、その工事の「工事予算書」の項目に、「停留場費」があるはずなのですが…

無いんですねぇ…。ということは、この際に設置された可能性も低いわけです。

これ以上は流石に調べられないので、調査はあえなく断念。昭和4年から6年のわずかな期間に設置されたのか、はたまた金子さんの記憶違いなのか…。利用者によって非公式のホームが設置された可能性も考えられます。とにかく現時点での結論としては、「2代目停留場についてはわからない」ということで、締めたいと思います。少なくとも、公式に造られた可能性は低いでしょうけどね。

 

駅の話はお腹いっぱい。そう思っている方がどれほどいらっしゃることでしょうか。次項からはデザートで、沿線の土地の事について書いていきます。

 

4.小町園

さて、2代目停留場は市場の最寄りとして設置されたと書きましたが、実は市場のほかにもう一つ最寄りとなる施設があったのです。「小町園」といい、明治・大正期に盛況を博し、数々の鎌倉文士たちに愛された旅館・料亭です。

小町園は冒頭の地図にも示した通り、ガードのすぐ北側からスルガ銀行の辺りまでの、広大な敷地にありました。江ノ電で藤沢・江ノ島方面からやってきた文人たちは、果たしてこの停留場を利用して小町園へと向かっていったのでしょうか…? 想像が膨らみますね。

▲小町園(鎌倉市中央図書館蔵)

 

5.御成町と蔵屋敷

当停留場の名になっている「蔵屋敷」。鎌倉市御成町(おなりまち)の一部で、鎌倉駅西口の辺りから若宮大路由比ヶ浜大通りの一帯を指します。御成小路から裏駅(西口)まで続き、日々観光客で賑わう「御成通り」は、古くは「蔵屋敷通り」と呼んだといいます。「蔵屋敷」の名の起りはわかりませんが、鎌倉幕府や周辺の街(小町・大町など)が絡んでいるのでしょう。

なお、現在の地名である「御成町」は、御成小路を進んだ先にある御成小学校のある地が起源です。御成小学校や鎌倉市役所のある一帯には、かつて御用邸がありました。皇族の方が「御成りになった」から「御成町」というんですね。
御用邸明治32年に落成し、明治天皇の皇女様方が利用なさっておりましたが、関東大震災で倒壊してしまいました。そのまま放置されて昭和6年に廃止、昭和8年には宮内省から払下げを受けた跡地に御成小学校を建設したということです。

 

6.江ノ電開通前の横須賀線ガード

最後は少し鉄道の話も絡めようと思いまして。これ、気になりませんか? え?気にならない? そうですか…。 少なくとも地元民は気になるはず…!なのでちょこっと書きます。

地理院地図に筆者加筆

話は横須賀線開通時に遡ります。横須賀線は海軍の重要な拠点である横須賀に向けて、全国でも早期に建設されました。建設はお寺の土地でもお構いなしにぶった切って進められていったのですが、実はこの現在ガードとなっている場所もその一つでして…。

ここでぶった切ったのは、なんと段葛なんですね。

あれ? 段葛って、二の鳥居から先じゃなかったっけ?

実は、横須賀線開通前は下馬や一の鳥居の辺りまで段葛が続いていたんですって! なんと、段葛を崩して集めた土で若宮大路を分断する大きな築堤(土手)を造り、線路を通したんだとか。

地理院地図に筆者加筆

築堤は下馬の四辻の付近から始まり、今のガードくらいの高さがあったそうです。また、頂点には単線の横須賀線が通っていて踏切があり、線路の手前右側には踏切番の小屋があったそうです。踏切を越えるとまただらだらと坂を下っていき、小町園の入口(農協の即売所のある付近)の辺りに出たといいます。なお、小町園へは、坂の中腹からも別の道が通じていたそうです。
木村彦三郎監修『目で見る 鎌倉・逗子の100年』(郷土出版社)には、当時の踏切の写真が載っているので、気になる方はぜひ図書館で見てみてください。

なお、この築堤は明治43年江ノ電の交差工事が行われて、現在のようなガードになりました江ノ電がここを通らなければ、今も築堤のままだったかもしれませんね。

 

さて、以上が蔵屋敷停留場の歴史です。後半はもはや停留場の話ですらありませんでしたが、どうかご容赦ください。今後もこのように土地の話も併せて紹介していこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。では、今回はこの辺で失礼します。

 

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