ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#18 稲村ヶ崎 その1 —8ヶ月間だけ終点を務めた駅—

どうもお久しぶりです、ひこねです( ̄  ̄)ノ

多忙により7月中は投稿できませんでしたが、わずかながら時間ができたので久しぶりに執筆します。

 

さて、今回紹介するのはこちら。ようやく海沿いにやってきました。

稲村ヶ崎(いなむらがさき)駅です。

極楽寺・車庫前とややこしい変遷を辿る停留場が続きましたが、実はここ稲村ヶ崎も数度の移転を経ておりまして…。実はこれが執筆が遅くなった原因の一つだったり。
しかも狭い範囲で行ったり来たりするので、余計にややこしい。

 

 

0.停留場変遷

ということで、今回は先に全体の動きをざっくりと説明しておきます。
下の地図と変遷図もぜひ参考にしてくださいね!

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線)
稲村ヶ崎停留場の位置は数字で表記, [n]=n代目

稲村ヶ崎停留場変遷(1~4代目)
※太線は線路(右側が鎌倉方面), 緑色はホーム

稲村ヶ崎駅は、初めは現在よりも東側の、海に続く道の脇にありました(図①)。大正末期には増発のため、これを西側に移し、待避線が併設されました(図②-1上)。この待避線はわずか数年で撤去され(図②-1下)、ホームも再度東側に移転されました(図②-2)。
しかし昭和15(1940)年には再度待避線を増設、停留場中心位置も変更されました(図③)。翌年にはこれを統合・変更して島式ホームに改造(図④)、戦後に西方の現位置に移転し、現在に至ります。

…と、こんな感じで、中々複雑な変遷を辿っていることがお分かりいただけたかと思います。今回はこのうち、初代から3代目について解説します。

 

稲村ヶ崎停留場 年表①】
M36.7.17 (1903)
行合-追揚間延伸に伴い、追揚として開業
M43.2(1910)頃
稲村ヶ崎に改称

T14.8.15(1925)
稲村ヶ崎待避線(藤沢起点4哩25鎖18呎より4哩28鎖57呎)を新設し、昇降場を待避線の中央部に変更認可(7.16申請)
S3.10.12 (1928)
待避線廃止認可(8.3申請)
S4.4.18 (1929) 
ボギー車導入のため、線路中心・ホーム擁壁間の幅員を拡張認可(S3.8.22届出→申請)
※S3.8.22に工事実施の届出をしたが、認可申請が必要な事項であったため、届出書を申請書として処理し、S4.4.18に改めて認可が下された。
S8.6.13 (1933)
稲村ヶ崎停留場の藤沢行ホームを撤去届出
S14.4(1939)以前
ホームを東側に移転
S15.3.5 (1940)
待避側線新設並びに乗降場短縮認可(S14.4.15申請)
・藤沢起点6粁957米に待避線を設置
稲村ヶ崎停留場の乗降場を短縮し、中心を藤沢起点6粁995米に変更

 

 

1.初代停留場

稲村ヶ崎停留場は、明治36(1903)年の行合-追揚間延伸に伴い、「追揚(おいあげ)」終点停留場として開業しました。いや、正確にはその可能性がかなり高いというべきですかね。開業当時の資料が見つかっていないので断言まではできませんが、おそらく「追揚」として開業していると思われます。詳細はまた記事にします。

現行の稲村ヶ崎」と改称したのは、おそらく明治43(1910)年の2月でしょう。根拠は、和田塚や由比ヶ浜、権五郎の際にも提示した新聞記事です。なお、ここにも「追揚」の名がありますが、これはまた別の停留場です。

▲橫濱貿易新報「昇降所の改稱」1910年2月19日付, 4面

 

先述した通り、位置は現在よりも東側の、稲村ヶ崎1号踏切脇にありました。

▲初代稲村ヶ崎停留場(ホームは推定)

稲村ヶ崎1号踏切より、藤沢方面を望む
※黄線は旧線, ホームおよび中心位置は推定

江ノ電讃歌』内の記事「江ノ電懐古」では、写真付きで往時の様子が紹介されているので、より深く知りたい方にはオススメです。

2.2代目停留場

①2代目(前半)

大正14(1925)年には待避線の新設に合わせて、その中心に移転し、上下線にホームが設けられました。これが2代目停留場です。

▲2代目稲村ヶ崎停留場

稲村ヶ崎駅付近の小道より鎌倉方面を望む
※黄線は旧線(左が本線)

北側が鎌倉方面、南側が藤沢方面で、鎌倉方面行のホームは道路と同じ高さになっており、ほぼ一体化していたようです。

待避線の新設は片瀬-長谷間の運転回数増加を目的としたもので、稲村ヶ崎を含む2ヶ所に設置されました。これにより同区間は24分間隔から10分または12分間隔へと、大幅な増発が行われたようです。
しかし、さらなる増発に向けて、よりスムーズに行違いできる位置に待避線を移転する目的で、わずか4年後の昭和3(1928)年には待避線の撤去が認可されました(下画像)。※交換所の役割は極楽寺待避線(車庫前)へ

▲2代目稲村ヶ崎停留場(待避線撤去後)

なお余談ですが、待避線が撤去された後も、藤沢方面行ホームはしばらく残置されていたようです。詳細な撤去時期はわかりませんが、他の複数の事項と併せて、昭和8(1933)年に撤去の届出がされています。

 

②2代目(後半)

▲2代目稲村ヶ崎停留場(ホーム位置は3代目)

稲村ヶ崎1号踏切より、藤沢方面を望む

▲2代目停留場(後半)のホーム位置

 

以降、昭和14(1939)年4月までに、ホームが再度踏切脇に変更されました。ホーム位置を基準として考えるならば、これは3代目への移転となりますが、停留場中心位置を基準として考える場合、このホーム変更では停留場中心の変更は行っていないため、2代目のままということになります。

ここでは後者の停留場中心位置を基準として考えるため、2代目のままと判断します。少しややこしいので、便宜上ホーム変更前を「2代目(前半)」、ホーム変更後を「2代目(後半)」と呼ぶことにします(付図ではそれぞれ「②-1」・「②-2」としました)。

 

3.3代目停留場

昭和15(1940)年になると、交換所の調整のため、再度当停留場に待避線が設けられることになりました。が、スペースがなかったため、ホームの一部を削り、空いた空間に敷設されることになりました。この際、停留場中心位置がホームの中心に移転され、資料上としても3代目停留場が成立しました。

付図の通り、2代目(後半)は元々ホームと停留場中心位置が少し離れており、ホームの一部を撤去すると両者がより離れてしまうため、停留場中心をホーム位置に合わせて、停留場と待避線を分離したものとみられます。

▲3代目稲村ヶ崎停留場と稲村ヶ崎待避線

稲村ヶ崎1号踏切より、藤沢方面を望む

▲3代目停留場のホームおよび中心位置

さて、この2代目(後半)及び3代目停留場のホーム上(下側の大きく出っ張っている部分)には駅舎があったそうですが、『江ノ電沿線今昔漫筆』によれば、この駅舎には周辺の商人らが設備した日除けがあり、また夏にはこの先端に細提灯を吊り下げて避暑客を迎えたそうなんです。
戦前においても、住民が定期利用者(住民)の便宜のために上屋等を設置する例は全国で見られますが、これに装飾を施して外からのお客をもてなすというのは、私はあまり聞かないですねぇ…(もちろん、現在であれば随所で見られますが)。同書でも述べられている通り、本当に「商売熱心」ですね。

 

以降は次回に解説します。 

 

4.名所案内 —新田軍の勇者を弔った地—

地理院地図に筆者加筆

それではおまけパートへ。今回紹介するのは「十一人塚(じゅういちにんづか)」です。十一人塚は、稲村ヶ崎駅から極楽寺方面へ行き、踏切を渡って海側に少し下った所にあります。

 

▲十一人塚

規模としては決して大きくはありませんが、鎌倉の歴史を詳しく語るうえで重要な場所だったりします。

そもそも十一人塚とは何なのか。話は元弘3(1333)年の鎌倉攻めに遡ります。
鎌倉攻めの際、新田義貞の一族に大館宗氏という者がおり、浜手の大将として大軍を率いて極楽寺切通を攻め入ったそうです。しかし以前こちらで紹介した通り、極楽寺坂は北条の防衛線が堅固に張られ、激戦地となっていました。
北条の猛攻に耐え、なんとか切通を抜けた大館氏一行は、由比ヶ浜の守備を崩そうとしましたが、またも北条軍の本間山城左衛門からの反撃にあってしまい、最後まで残った宗氏ら11人は稲瀬川で討死してしまったといいます。

十一人塚は彼ら11名を葬り、十一面観音像を建立して霊を弔った地とされています。

 

青年団の碑

中には碑が数基ある程度で、普通の人が見ても特に面白みは感じられないでしょう。やはりこういった場所は、歴史的背景を知ったうえで訪問するからこそ、面白みを感じられるのではないか、と思うのでした。

 

それでは、今回はこの辺りで。( _ _)

 

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