どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ
いよいよGWですね。私はなんだか忙しくなりそうな予感がしますが…。
今回は、車庫前停留場改め、極楽寺待避線の歴史の続きを解説していきます。
今回も地図と年表を用意したので、ぜひご活用ください!
【極楽寺待避線 年表②】
S3.10.12 (1928)
藤沢起点4哩50鎖15節に極楽寺待避線を新設認可(8.3申請)
S4.5.10 (1929)
用地買収困難のため、藤沢起点4哩52鎖付近の勾配を変更し、新設極楽寺待避線の位置を同4哩52鎖30節に変更認可(2.20申請)
S11.12.11 (1936)
町道新設により転轍器の位置に踏切設置の必要があったため、極楽寺待避線を変更認可(11.19申請)
S14.12.6 (1939)
極楽寺停留場及び待避側線(藤沢起点7粁541米)を軌道専用敷地内(同7粁681米5)に移転認可(6.5申請)
=極楽寺停留場と統合
今回は、3代目と4代目を紹介します。
1.3代目待避線
前回解説した通り、2代目待避線は交換所の調整により不要となり、大正時代のうちに撤去されました。これが再度必要となり設置されたのは、昭和4(1929)年のことです。位置は車庫引込線の少し藤沢寄りで、南側に膨らんでいました。
設置に際して、当初はもう少し藤沢寄りのS字カーブの所に設けられる予定でした(下図)。
しかし、(おそらく上側に膨らんでいる部分の)用地買収が難航し、やむなく勾配を調整したうえで変更されました。
↑現在の様子に合成すると、こんな感じ。
さて、この3代目待避線ですが、上の合成画像のように分岐部分が踏切の位置にありました。この月影ヶ谷へ行く道は永らく未整備でしたが、昭和11(1936)年に町道として整備されました。その際、江ノ電の転轍器の位置に踏切を設ける必要があったため、待避線が鎌倉寄りに移設されました。
2.4代目待避線
こうした経緯で誕生した4代目待避線は、上図のように構内から車庫線が分岐する、変わった構造をしていました。
少し脱線しますが、この当時は車庫にデルタ線があったようですね。江ノ電OBの某氏によると、このデルタ線が昭和6, 7年頃敷設され、同25, 6年頃まで使用されていたという話を先輩から聞いたことがあるそうです。又聞きの情報ですが、他資料と照合の結果、十分信用できる年代だと思います。
なお、デルタ線廃止後も一部(上に伸びる長い部分)は突込線として残存していたようです。明細地図から判断して、撤去の時期は昭和42(1967)~44(1969)年の間でしょう。
さらに話が逸れますが…、由比ヶ浜で保存の107号車と極楽寺車庫で保存の108号車、同時に製造されたにも関わらず、引退時点では左右逆構造になっていたそうです。確証は得られませんが、コアな江ノ電ファンの間では、このデルタ線で反転したままになっていたんじゃないか、といわれている模様。というか、それ以外に思いつかん…。
さて、話を戻しまして…。実はこの4代目待避線、もう一つ変わった点があったんです。サブタイトルにもなっていますが、ただの交換所にも関わらず、なんとホームがあった模様。
さて、どれがホームかわかりますか…?
本線と待避線、それぞれの脇にありますねぇ。
そう、これ! どうです? ホームに見えません? 明記されていないので確実ではありませんが、これはホームでしょ。
ちなみに、いつ設置されたのかはわかりません。昭和11年移転時の「工事予算書」に記載されていないので、後付け? それとも地域住民が設置した? あるいは未認可工事とか…(実はこれが意外とあるあるだから困る)。
現在の様子と合わせると、こうなります。車庫付近の線形が当時とは異なるので、ちょっと作図に苦労しました…。ホームらしきものも赤四角で記してあります。
3.5代目待避線(=4代目極楽寺停留場)
さて、話は変わって近隣の極楽寺停留場について。以前解説した通り、この頃の極楽寺停留場は踏切との交差点にあり、安全性が問題視されていました。そこで昭和14(1939)年に移転が計画されます。この際、運転の効率化を図るために極楽寺待避線を統合し、行違い可能な一つの停留場となりました。
停留場の詳細やその後の変遷は以前解説したので、こちらをご覧ください。
車庫前(極楽寺待避線)については以上です。
4.名所案内 —針職人に由来する橋—
ではおまけパートへ。今回紹介するのは「針磨橋(はりすりばし)」です。
針磨橋は、前回紹介した月影ヶ谷から少し下った所にあります。琵琶橋同様に鎌倉十橋の一つですが、極楽寺にポツンとあり、他の十橋とはかなり距離が離れています。
現在は片側の欄干と石標があるのみで、あまり橋らしさは感じられません。
橋名の由来は、かつてこの付近に針を磨いて作る老婆がいたからだとか、極楽寺の塔頭に住む「我入道」というお坊さんが針を作っていたからだといわれています。後者の由来から、「我入道橋」ともいうそうです。この名は江ノ電でも使用されていました。
江ノ電には、かつて月影ヶ谷の付近に極楽寺川の支流を通す暗渠があったようですが、大正時代の資料では「皒入道暗梁」(「ガ」は白+我,「梁」は「渠」の誤り?) と記されていました。なお終戦頃の資料では「車庫前暗渠」となっている。
そして恒例の青年団の碑はというと…、
なんか新しい…!? そしていつもの碑の写真が…。
元が昭和13年に建てられたものなので、かなり傷んでいて建て替えられたんでしょうか…。
と思っていた時期が私にもありました。平穏が一番のこのブログでは詳しく書けませんが、どうやらそうではない模様。
では最後に元の碑の写真をアップで。いやしかし、なんだか遺影みたいですね。イェーイ!(激寒ギャグ)
見事に滑ったところで、今回はこの辺りで。( _ _)