ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#19 稲村ヶ崎 その2 —黒砂の海岸に近い駅—

どうもお久しぶりです、ひこねです( ̄  ̄)ノ

少し忙しくしている間に、ベビースターとコラボしたり江ノ島駅の引込線が撤去されたりと、色々あったようですね…。

 

さて、今回も前回に引き続き、稲村ヶ崎駅の歴史について解説していきます。

 

 

 

0.停留場変遷

今回も参考までに、地図・変遷図と年表を掲載します。
今回は、4代目・5代目について解説します。

前回の記事をまだ読んでいない方は、ぜひこちらから!

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線)
稲村ヶ崎停留場の位置は数字で表記, [n]=n代目

稲村ヶ崎停留場変遷(1~4代目)
※太線は線路(右側が鎌倉方面), 緑色はホーム

 

稲村ヶ崎停留場 年表②】
S15.3.5 (1940)
待避側線新設並びに乗降場短縮認可(S14.4.15申請)
・藤沢起点6.957kmに待避線を設置
稲村ヶ崎停留場の乗降場を短縮し、中心を藤沢起点6粁995米に変更
⇒3代目
S16.5.15 (1941)
線路及び工事方法一部変更届出(11月竣工)
稲村ヶ崎停留場の待避側線を移設延伸
・乗降場を藤沢起点6.955kmに移築し、島式に改良
・駅本屋を移転改築
⇒4代目
S29.4 (1954)
稲村ヶ崎駅の分岐器を改良
S30.8.10 (1955)
稲村ヶ崎駅江ノ島寄りに75m移設
⇒5代目
S51.9.1 (1976)
自動券売機設置
S51.10 (1976)
ホーム上屋がグレーとクリーム色を基調に再塗装される
S55.2.13 (1980)
稲村ヶ崎駅新築駅舎にて業務開始
S55.4.15 (1980)
稲村ヶ崎駅の軌道内に、無改札者侵入防止用の三角ブロックを敷設
S55.5 (1980)
構内踏切に遮断機が設けられる
H29 (2017)
バリアフリー化に伴いリニューアル
R6.3.16 (2024)
終日無人駅化

 

 

1.4代目停留場

▲3代目稲村ヶ崎停留場と稲村ヶ崎待避線

4代目稲村ヶ崎停留場(推測)

稲村ヶ崎駅付近の小道より鎌倉方面を望む
※黄線は旧線(左が本線)

昭和15(1940)年に成立した3代目停留場は、僅か1年程で使用を終了し、4代目へと移行します。これは、待避線が輸送状況に対して狭小であり、拡張の必要があったことによります。
つまり、続行運転を行いつつもスムーズに行違いができるように、長さに余裕を持たせたわけです。

また、この際に待避線と停留場が統合され、運転の効率化が図られました。

 

4代目停留場については図面資料が無いので詳細は不明ですが、戦後直後に米軍が撮影した航空写真(下図)に不明瞭ながら写っています。上の図はこれを基に作成したため、実際とは異なる可能性があります。
※2024.10.25 画像修正(駅舎等追記)

▲4代目稲村ヶ崎駅(国土地理院空中写真に筆者加筆)

【2024.10.25 追記】
4代目駅にも駅舎があったようなのですが、これについても資料を見つけられず、しばらく不明のままでした。しかし最近、鎌倉市中央図書館にて昭和25(1950)年頃撮影の写真が所蔵されているのを知り、資料を提供していただくことができました…!

「駅の北側だとスペースがないよなぁ…」なんて思っていましたが、やはりというべきか、駅舎は駅の南側にあったようです。また、航空写真ともよく見比べた結果、構内通路があったらしいことも判明しました。

▲4代目稲村ヶ崎駅駅舎
(松岡直彦氏撮影, 鎌倉市中央図書館所蔵・提供)

一見民家のようにも見えますが、よく見ると駅らしい庇や、ラッチ(改札)が確認できます。手前には、「江ノ島電車 稲村ヶ崎驛」と書かれた案内板もありますね。

 

 

2.5代目駅(現在)

▲5代目稲村ヶ崎駅(昭和30年代後半)
江ノ電六十年記』より

▲旧駅舎時代の稲村ヶ崎駅(野口雅章氏提供, S48.7.1)

4代目位置から5代目・現在位置へと移転したのは、戦後少ししてからのことです。資料上は昭和30(1955)年8月とされていますが、前29年に分岐器が改良されていたり、同年12月実測の地図に現在位置で描かれていたりすることから、昭和29(1954)年中には現位置へ移転したと推測されます。

この時、上図のように、駅舎はホーム上(藤沢側先端)に設けられました。現駅舎へと切替わったのは昭和55(1980)年の事です。以降40年近く変化は無く、平成末期を迎えます。平成29(2017)年にバリアフリー化工事の一環でホームの一部と上屋がリニューアルされ、現在の形態となりました

 

【2023.11.28 訂正・追記】
地図には旧待避線を消したような跡があり(測図時点では旧位置だった)、また江ノ電の公式X(Twitter)にも昭和30年6月時点の写真があがっているので、移転は昭和30年8月のようです。

[Twitterリンク]

折角なので、上記の写真について少し解説。稲村ヶ崎駅の写真は2枚目で、ちょうど通票(タブレット)を交換しているシーンです。
この頃は、概ね「軌道」のまま特認された状態にあった諸設備を「鉄道」化しており、その一環で各駅のホーム嵩上げと車輌のステップ廃止が行われていました。
その最中なので、ホームは低く(30cm程度)枕木で仮の乗降段が設けられており、また車輌のステップ部は板で塞いであります。
ところで、この写真の頃には多くの駅で嵩上げ工事が進行・完了していたようですが、まだ如何にも「仮」な様子だったのは、近く移転予定だった稲村ヶ崎駅ならではなんでしょうね。

 

▲新駅舎とタンコロ(野口雅章氏提供, S55.12)

▲新築の頃の現駅舎(野口雅章氏提供, S58.2.20)
よく見ると、手前の柱の位置が現在と異なる

▲現在の駅舎(H31.3.5)

▲リニューアル後のホームと上屋(H31.3.5)

 

以上が稲村ヶ崎駅の変遷です。 

 

 

3.名所案内

稲村ヶ崎 —鎌倉の親不知—

それではおまけパートへ。まずは「稲村ヶ崎(いなむらがさき)」です。稲村ヶ崎は、駅から徒歩5分程の距離にある岬で、駅名や一帯の地名の由来になっています。

【概要】

七里ヶ浜より稲村ヶ崎を望む

この名の由来は、岬の形が稲束を積み重ねた「稲叢(いなむら)」に似ているからだといいます。

▲公園として整備された岬

現在は、岬の半分程が鎌倉海浜公園として整備されています。

▲頂上からの眺望

頂上からの眺望は素晴らしく、雄大な太平洋の絶景や日の入りを存分に謳歌できます。

【歴史】
そんな稲村ヶ崎ですが、かつては交通の要所として注目されていました。
というのも、極楽寺切通ができる前はこの岬を海伝いに渡るほかに道はなく、自然の関所、ちょっとした難所として人々の前に立ちはだかっていたのです。そのため、中世における「鎌倉」の西の境界も、稲村とされていたようです。

さて、稲村ヶ崎は「ちょっとした難所」だったと書きましたが、たかだか300m程度の海岸が本当に難所だったのでしょうか…?
これについては、まずは下の画像をご覧ください。

昭和2年の鎌倉町の地図(一部)

こちらは昭和2(1928)年の鎌倉の地図なのですが、現在と違い、七里ヶ浜から由比ヶ浜にかけて、大きな岬になっていますね。これが岬の本来の姿です。かつては、大きく突出した部分の東側を霊山ヶ崎(りょうぜんがさき)、西側を稲村ヶ崎と呼んでいました。

この大きい岬は距離にして約1km程もあるので、当時の方々にとっては、まるで新潟の難所の親不知・子不知の如く感じられたことでしょう。もちろん、親不知ほど壮大ではないのですが…。

 

ところで、岬が分割され現在の形になったのは、いつ頃のことなんでしょう?

昭和7年の鎌倉町の地図(一部)

こちらは昭和7(1932)年の地図です。現在のように海側に土地ができ、「埋立地」と記されています。実は霊山ヶ崎では、大正12(1923)年の関東大震災により、大規模な土砂崩れが起きていました。そのため、昭和7年その回復も兼ねて埋め立てが行われたというのです。
こうして霊山ヶ崎の大部分が消滅してしまい、やがて稲村ヶ崎に名を統べ、現在に至るというわけです。
なお余談ですが、戦後の一時期、この埋立地には「鎌倉水族館」なる水族館があったようです。(位置は市営プールのすぐ北)

 

 

ところで、この断崖絶壁を進む道は、新田義貞も通ったとされています。伝承では、元弘3(1333)年の鎌倉攻めの際、極楽寺坂や稲村ヶ崎一帯の北条の防衛陣に苦戦した新田義貞が岬から黄金の太刀を海に投じたところ、潮が引き、新田軍は岬を回って鎌倉へ突入したといいます。
この事は、海浜公園内にある碑にも刻まれています。

青年団の碑

新田義貞の伝承を記した碑と稲村ヶ崎

 

 

袖ヶ浦 —黒砂の海岸—

もう一つは「袖ヶ浦(そでがうら)」です。千葉県にも同名の地名がありますね。
こちらは、稲村ヶ崎の横の浜が、衣服の袖のような形状をしていることから名付けられたとされています。

実はこの海岸、少し特徴的でして…。

袖ヶ浦稲村ヶ崎

なんと、砂が真っ黒なんですよ。これは砂鉄を多く含んでいるからだそうですが、七里ヶ浜のうち、この袖ヶ浦だけが黒々とした砂が多いんです。

かつてはもっと西側(行合川の先の辺り)まで黒砂の海岸だったようですが、この一帯の開発のためなのか、砂が流失してしまい、一部は岩肌が剝き出しの海岸になってしまいました。
そんな中、袖ヶ浦だけは黒砂の海岸を維持しているのです。一体なぜなんでしょう?

 

私は地学には疎いので、地名からの推測になりますが、極楽寺川が砂鉄を運んできているのではないかと推測しています。まずはこちらをご覧ください。

地理院地図に筆者加筆

画像の中央部を縦断する青線が極楽寺川です。この川の支流の源は「金山」と呼ばれる山にありますし、付近の本流の方にも、針職人に由来するという「針磨橋」があります。このように地名だけで見れば、極楽寺川が砂鉄を運んできていると考えることができます。

また、以前由来を不明とした砂子坂(すなこざか)も、もしかしたらこの砂鉄と関連するかもしれません。
「砂子(すなご)」の意味する「細かい砂」が砂鉄を指し、砂鉄が採れたから(または輝いていたから?)砂子坂というのか、あるいはただ砂を指し、それが堆積してできたから砂子坂というのか…。

時間ができたら、地学の勉強もぜひしたいところですねぇ…

 

それでは、今回はこの辺りで。( _ _)

 

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