ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#6 和田塚

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ

鎌倉からここまで、今は無き駅(停留場)を紹介してきました。今回で、ようやく2つ目の現役の駅にたどり着きました。

 

さて、今回紹介するのはこちら。

和田塚(わだづか)駅です。

 

 

今回も地図と年表を用意したので、ぜひご活用ください!

地理院地図に筆者加筆

 

和田塚駅 年表】
M43.2(1910)~T2.9(1913)
新設開業
T1.9.24 (1912)
原ノ台の待避線を移転指令(M45.7.5申請)
S4.4.18 (1929)
線路中心・ホーム擁壁間の幅員を拡張認可(S3.8.22届出→申請)
S20.6.26(1945)以降
待避線撤去
S53.10.24 (1978)
和田塚駅、延長分ホームの使用開始
S55.2.20 (1980)
和田塚駅に改札小屋新築
S55.7(1980)~S58.1.31(1983)
和田塚駅ホームに上屋設置
S58.1.10 (1983)
自動券売機による販売を開始

※年表内「指令」は省指令(認可)のこと。関東大震災頃以前は、「省-(省認可)→県-(県認可)→企業」と数段階踏んでいたが、以後は「省-(認可)-県(経由)→企業」と、県を経由しつつ政府が企業に直接認可を与える構図へと変化した。〇これは個人の見解です。

 

1.行違いができた!?

鎌倉駅のお隣の和田塚駅。現在は地味な1面1線構造の駅ですが、昔はとある重要な役割を果たしていました。それが何かというと…

昭和17年の和田塚停留場

列車交換(行違い)です。

現在の様子と比べると、このようになります。

現在ホームがある場所に待避線があったんですね!
ちなみに、この待避線が撤去された時期は不明です。昭和20年6月の資料ではまだ待避線がある様子で、昭和29年12月実測の「鎌倉基本図」には1面1線構造で描かれているので、この間である事は確かなのですが…。

 

2.和田塚駅はいつできた?

見出しから何となく察した方もいらっしゃることでしょうが…、和田塚駅は、極楽寺-大町間延伸時に設けられた停留場ではありません

というのも、明治43年2月19日の新聞「横浜貿易新報」には、こういう記事がありまして…

▲橫濱貿易新報「昇降所の改稱」1910年2月19日付, 4面

ここには当時の停留場名が列挙されていますが、左端の原ノ台と学校裏の間に「和田塚」の字が見当たりません。つまり、この時にはまだ無かったのです。では、いつ設置されたんでしょうか?

個人的に怪しいと思っているのは、大正元年です。
年表にもある通り、大正元年に、お隣の原ノ台停留場から当地に待避線が移されています。この時の資料を見ると…

漢文みたいで、慣れてない方々には少々読みづらいかもしれませんが、要約すると「原ノ台停留場にある待避線を、運行の都合上『鎌倉郡鎌倉町大字大町字塔ノ辻233番イ号の3』に移したいので、認可してください」といったところです。

ここで注目したいのは、「鎌倉郡鎌倉町(以下略)」と、地名(所在地)で書かれているとい う点です。もしも和田塚停留場があったとすれば、「和田塚停留場に移転」で良いはずです。

これは私の推測になりますが、待避線が移設されたことで近隣住民から「折角電車を停めるのなら、昇降場を置いてくれ」と停留場新設の希望が出て、和田塚停留場が誕生したのではないでしょうか?

※ちなみに、大正2年当時の資料からは和田塚停留場の存在が確認できます。

 

3.野口写真館(和田塚編)

ここからは、琵琶小路の回でも紹介した、江ノ電FC初代会長の野口さん撮影の写真を掲載します。

 

▲S53.11.5当時の和田塚駅(野口雅章氏提供)

まずは昭和53(1978)年のもの。車輌は300形の354号+304号です。
ホーム上屋はまだなく、雨の日は大変そうですね。現在と同じ待合所(ただし窓なし)が確認できますが、これはいつ頃できたものなんでしょうか…?
なお、ここには写っていませんが、この写真の撮られる12日前にホームの両端が延長されています。おそらく1000形導入に向けての工事と考えられます。

 

▲S55.7当時の和田塚駅(野口雅章氏提供)

続いて、2年後の昭和55(1980)年のもの。車輌は、旧500形の552+502。先述のホーム延伸がはっきりわかりますね(手前の白くなっている箇所)。また、この5ヶ月前に設置された改札小屋も確認できます。

 

▲S58.1.31当時の和田塚駅(野口雅章氏提供)

最後に、昭和58(1983)年のもの。この2年半の間にホーム上屋が設置されていますね。自動券売機が設置されているはずですが、上屋の一番手前の柱の奥にある建造物がそうなんですかね?

 

▲現在の和田塚駅(筆者撮影)

おまけ。比較用に現在の様子を載せます。トイレ(ホーム中程)が新設されているほか、階段がスロープに変更されています(よく見たら電話ボックスの横に階段の跡がありますね)。また、新たに車掌用ホーム(金属製)も設けられています。

 

4.和田塚

ここからは後半戦。今回は駅名の由来にもなっている「和田塚」を紹介します。

和田塚は、駅から徒歩1分の場所にある塚のことで、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する和田義盛らが眠っているとされています。

 

小高い盛土になっており、階段の先には関東大震災や戦争での死者を弔う碑と共に、和田一族の墓があります。

 

さて、和田塚は「『和田合戦』で戦死した和田氏一族を弔うために建てられた」と一般には言われています。が、『鎌倉の地名由来事典』には次のように書かれています。

 

 「名前の由来は和田義盛の乱に際し、戦死した和田一族の遺体を葬った場所とされ、塚上にはその旨を記した石碑と五輪塔群があるが、巷間でこう云われるようになったのは、明治三十四年(一九〇一)以降のことであり、塚自体と和田氏の乱との直接的な関係はない」

 

なぜ明治期になって和田一族の墓だと言われるようになったのかははっきりしませんが、同箇所に明治25年に発掘調査が行われた旨の記載があるので、おそらくこの頃にそう呼び始めたんでしょうね。

かまくら子ども風土記』にも、その事が記されていました。少々長いので要約すると…、

 

 「向原円墳の一部と思われ、かつては『無常堂塚』と呼ばれていた。明治25年の道路工事の際の出土物に多数の人骨があり、和田一族の墓とされた。塚の上には『和田一族戦没地』の碑もあるが、一族との関係はないようだ」

 

ざっとこんな感じです。向原というのは、和田塚のある辺りから浜の付近までの地名です。和田塚駅は小字塔ノ辻ですが、和田塚は小字上向原に属します。まぁ、鎌倉市の小字はとっくに廃止されたんですけどね…。

つまりまとめると、明治25年の発掘調査で和田一族の墓だとされ、誤った情報が今日まで語り継がれてきた、というわけですな。もちろん諸説ありますが…。
そう考えると、大正初め頃にできた和田塚停留場は、当時としてはまだ新しい名前を付けられたということになりますね。

 

では、今回はこの辺りで失礼します。先週は忙しくて一週間分空けちゃいましたが、簡単な駅レポでも上げておくべきでしたかね…?

 

前▶ 学校裏
次◀ 原ノ台