ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#17 砂子坂 —「軌道」時代の名残を感じられる場所—

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ
気付けばGWも終わり、また忙しい日々に。GW中の「段落とし」についても近々まとめようと思います。

さて、今回はこちらを解説していきます。

砂子坂(すなこざか)停留場です。

 

 

今回も地図と年表を用意したので、ぜひご活用ください!

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線)

 

【砂子坂停留場 年表】
M37.4.1 (1904)
追揚-極楽寺間延伸に伴い開業
S16.5.6 (1941)
廃止認可(S15.3.20申請)

 

1.砂子坂停留場

極楽寺待避線(車庫前)跡を過ぎ、S字カーブを行くと、道路と合流し並走します。この通にあったのが砂子坂停留場です。

稲村ヶ崎2号踏切より鎌倉方面を望む

この場所も「軌道」時代の名残で線路と道路が近接しているのですが…、上画像を見ると、なんだか今でも電車が停まってくれそうですよね。

さて当停留場は、明治37(1904)年の追揚-極楽寺間延伸に伴い開業したとみられます。終始ホームはなく、路面から乗降する簡単な構造をしていたようです。

開業以来特にこれといった変更はなく、両隣の停留場との距離が短いことと利用者が比較的少ないことを理由に、昭和16(1941)年に廃止されてしまいました。

 

短いですが、砂子坂停留場については以上です。

 

2.名所案内

地理院地図に筆者加筆

 

①砂子坂 —砂鉄に関係する地名?—

ではおまけパートへ。まずは停留場名にもなっている「砂子坂」について。
先に述べておくと、具体的にどの坂を「砂子坂」と呼ぶのかは、実はよくわかっていない模様。

針磨橋付近の江ノ電と合流する坂も候補として考えられますが…、

私は、この稲村ヶ崎1号踏切と同2号踏切の間の道が「砂子坂」なんじゃないかと思います。というのも、先ほどの坂はかつての小字「砂子坂」の一番端に位置し、こちらの坂は中の方に位置するからです。

また、これら2つを含む、針磨橋から海岸までの道が砂子坂だとする資料もあります。

 

なお、場所だけでなく由来についても明確にはわかっていません。この予測については、他の地名も交えて稲村ヶ崎駅の項で紹介します。

 

日蓮袈裟掛松 —日蓮の形跡 その1—

その(推定)砂子坂の道筋には、一段高くなった場所に植わった一本の松があります。これは「日蓮袈裟掛松」で、その名の通り日蓮宗の宗祖である日蓮上人が袈裟を掛けた松です。
ではなぜ袈裟を掛けたかというと…、

▲左が袈裟掛の松

時は遡って文永8(1271)年。当時隆盛していた日蓮が幕府や他宗を批判したとして、現在の片瀬・龍口寺の場所にあった刑場での処刑が決定されました。当時日蓮上人は鎌倉・名越の松葉ヶ谷にいたので、そこから片瀬へと連行されることになります。その道中で、「袈裟が血で染まるのは畏れ多い」として、この地の松に袈裟を掛けたそうです。
ちなみに、怪光により処刑は未遂に終わりました。詳細はまたいずれ書くと思います。

当然、当時の松はとっくに枯れてしまっていますが、枯れる度にまた松が植えられ、こうして現在まで残っているわけです。

 

【2023.6.3追記】
『大日本老樹名木誌』によると、当時の松は江戸時代後期の文政年間(1818~1831)まで残っており、その時の暴風で枯れてしまったとのこと。農林水産省によれば、松の寿命は300~500年程度だそうですが、真相や如何に。

 

③陣鐘山 —自然の司令塔—

袈裟掛の松の背後には、稲村ヶ崎駅の辺りまで続く小山がそびえています。これは「陣鐘山(じんがねやま)」といって、元弘3(1333)年の鎌倉攻めの際に、新田軍が陣鐘や陣太鼓で指揮を執った場所だといいます。

稲村ヶ崎2号踏切付近より、海側を望む

この道が(推定)砂子坂で、画像奥の、中央から右側に大きく写っている緑色が陣鐘山です。こちら側からだとわかりにくいですが、南方が海と平地に面しているので、司令塔にピッタリだったんじゃないでしょうか。

ちなみに余談ですが、かつての小字「砂子坂」の大部分はこの陣鐘山が占めていました。

 

では、今回はこの辺りで。( _ _)

 

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