どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ
最近、一気に寒くなってしまいましたね…。私は寒がりなので、対策が大変なこの頃です。
さて、今回紹介するのはこちら。
行合(ゆきあい)停留場です。
今回も地図と年表を掲載しておきます。
【行合停留場 年表】
M36.6.20 (1903)
片瀬-行合間延伸に伴い行合橋として開業?
M43.2 (1910)
田辺に改称?
T4.10.18 (1915)
田辺を行合に、行合を大境に改称認可(9.18申請)
T14.8.15(1925)
大境待避線を片瀬方面に8鎖42呎(約170m)延長認可(7.16申請)
S4.4.18 (1929)
ホーム新設認可(S3.8.22届出→申請)(5.20着手届出, 6.7竣工届出)
S8.6.13 (1933)
行合停留場の電話所を待合所に改築届出
S15.3.20(1940)以前
ホーム撤去
S18.1.29 (1943)
行合停留場を藤沢起点5.680km地点に移転認可(S17.6.30申請)
S19.6.20 (1944)
行合を七里ヶ浜に、七里ヶ浜を行合に改称届出
S19.6.30 (1944)
行合停留場を休止認可(6.20申請)
S23.4.14 (1948)
廃止認可(3.19申請)
この一帯の停留場変遷について解説したこちらの記事も、ぜひご覧ください!
1.行合停留場
①初代停留場
前回解説しましたが、プリンスホテル下にあり、後に「大境」を称する停留場が、初代の行合停留場でした。上画像からもわかるように、初めは行違い可能な構造をしていたようです。
改称は大正4(1915)年で、従来の「田辺(たなべ)」停留場が「行合」を称することとなります。
②2代目停留場
2代目行合停留場は、先述の通り元の田辺停留場で、明治36(1903)年の片瀬-行合間延伸に伴って開業しました。
開業時から「田辺」を称していたかは不明ですが、延伸の頃の雑誌等に度々「行合橋」停留場が登場するため、私は「行合橋」の名で開業したと推測します(残念ながら確固たる証拠はないのですが…)。
もしそうであれば、全線で広く改称があったという明治43(1910)年2月に「田辺」へと改称したのでしょうか…?
当時の写真です。画像中央付近に写っている電車の左側の電柱(一部白っぽくなっている所)が停留場です。電柱の白いのは文字で、5文字なので、おそらく「行合昇降場」または「行合停留場」と書かれているものと思われます。
開業からしばらくの間は、ただ看板を貼付けただけの簡単な停留場でしたが、大正14(1925)年には大境停留場の待避線が当停留場まで延長され、複線区間の始点となりました。
さらに、昭和4(1929)年には、大境停留場同様、ボギー車の導入に合わせてホーム(上り線のみ)が新設されました。ただし、大境とは異なり、昭和15(1940)年までには撤去されたようです。
なお、上図にある「電話所(鉄道内線電話)」の建物ですが、後に待合所へ改築されたようです。昭和8(1933)年に他件と併せて、まとめて届出がされていますが、具体的な改築時期は不明です。
③3代目停留場
長きにわたって行合川の東側で営業していた行合停留場ですが、昭和18(1943)年、川の西側(現在の七里ヶ浜駅の位置)に移転することになります。
これは停留場間隔の整理のために行われたもので、まず行合・七里ヶ浜両停留場が近接していることから、行合停留場をこの中間に移転し、次に七里ヶ浜停留場を臨時停留場の位置に移転して常設化することで、運転の効率化(※)も図られました。
※当時は行違いのため、夏季以外でも臨時停留場の位置に停車していたため、これの常設化は運転の効率化に多大な恩恵を与えました。
こうして誕生した3代目停留場ですが、わずか1年で終焉を迎えます。といっても、廃止されるのではなく、改称するだけなのですが…。
④4代目停留場
翌昭和19(1944)年6月、行合が七里ヶ浜に、七里ヶ浜が行合にそれぞれ改称されます。これにより、「行合」の名はかつての臨時停留場の位置(プリンス下)へ移ります。
なおどちらも移転でなく、あくまで改称なので、現在の七里ヶ浜駅のルーツは行合(旧:田辺)停留場にあることになります。
しかし、戦前のこの一帯は沿線の中でも特に何も無い所だったため、改称と同時に戦時休止されてしまいます。その後一度たりとも営業せず、他の休止中の停留場と共に昭和23(1948)年に廃止されてしまいます。
ちなみに、営業休止時の乗降人員はわずか136人で、これは休止された9停留場の中では群を抜いて少ない数字です。ここは行違いのついでで設けられたようなものだったので、きっと端から利用者数には期待されていなかったのでしょう。
なお、その行違いも戦後には行われなくなり、長大な待避線も昭和25(1950)年頃に撤去されたそうです。
停留場については以上です。
2.名所案内 —日蓮の形跡 その2—
それではおまけパートへ。今回紹介するのは、停留場名の由来にもなった「行合川」です。
行合川は、七里ヶ浜駅北方の「田辺ヶ池」等を源流とする、全長600m余りの小川です。中々変わった名前をしていますが、この由来は鎌倉時代まで遡ります。
時は文永8(1271)年9月。当時隆盛していた日蓮が幕府や他宗を批判したとして、片瀬・龍ノ口の刑場(現在、龍口寺がある場所)での処刑が決定されました。
しかし、いざ処刑が決行されようとする瞬間、突然怪光が現れ、目が眩んだ役人は刀を振り下ろせなくなったといいます。
これを幕府に伝えるための使者が七里ヶ浜を走っていると、鎌倉からはこれとは別に、日蓮の赦免を伝える使者が走ってきました。両者がこの川の場所で行合った(出会った)ため、これを受けて「行合川」の名が付いたというわけです。
現在は下水処理場からの処理水が流れ込む(※しっかり処理されており、水質は問題ないようです)ことから、水量が多くなっていますが、当時は田辺山からの流れのみだったため、水量はずっと少なく、川幅もかなり狭かったようです。そのため、江戸時代までは川に橋が架かっておらず、浅い川底を歩いて渡っていたようです。
それでは、今回はこの辺りで。( _ _)
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