どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ
今回からいよいよ本編に突入。江ノ電の現存する駅はもちろんのこと、廃止された駅(停留場)についても書いていきますよ~!
前回も書いた通り、公式YouTubeと争うつもりはないので、棲み分けてやっていきます。ということで、江ノ電の起点は藤沢駅ですが、このブログでは鎌倉駅から紹介していきます。
1.初代停留場
鎌倉駅。観光地鎌倉の玄関口であり、連日多くの人々が利用する駅です。そんな鎌倉駅の西口へ回ると、下画像のような隣り合った2つの駅舎が見えます。片方はJRのもので、もう片方は江ノ電のもの。まるで初めから仲良く並んでいたかのように見えるこれらの駅舎ですが、実は昔からこの位置関係というわけではないのです。
というのも、江ノ電の駅が昔は違う場所にありまして…
明治43年に江ノ電が鎌倉まで開通した際、江ノ電の駅がどこにあったかというと、
先ほどとは反対の東口を出て直進、視界に入ってきた大通りの…
ここ!
道路じゃねぇかよ。冗談はよしてくれ!
しかし、これが冗談じゃないんですね。前回ちょこっと書きましたが、昔の江ノ電は路面電車だったので、道路上に線路があっても何の問題もなかったのです。そして、終点付近は横須賀線と立体交差して、この若宮大路を走っていたのです。
この江ノ電の(旧)鎌倉駅は、初めは「小町(こまち)」という名前でしたが、大正4年に「鎌倉」と改称されました。改称後も、土地の人々は江ノ電の駅を「小町」の名で呼んでいたそうです。
旧称の「小町」というのはこの辺一帯の地名で、大町(後の記事で触れます)に対して名付けられたといいます。かの有名な「小町通り」の「小町」です。
さて、そしてこれがその当時の構造。なるほど、待避線があって、待合所があって…。ターミナル駅にしては少し小さいですが、何とも江ノ電らしい駅のように感じます。
この図面の「鎌倉町役場」は、現在「鎌倉生涯学習センター きらら鎌倉」に、その左側の土地は郵便局になっています。また、町役場の右、待合所の後ろの敷地は、現在大巧寺(おんめさま)の裏口の道になっています。当時の裏道はこの右隣の細長い土地だと考えられます。そして、この右隣が鎌倉銀行で、そのさらに右隣が島森百貨店(現:島森書店)となっていました。
つまりはこういうこと(緑字は現存しないもの)。
先ほどの画像を使って簡単に3Dバージョンを作ると…
こんな感じですかね。案内看板の裏が鎌倉銀行の跡地で、案内看板と現在の大巧寺裏口の間が昔の裏道。現在の裏口の前には待合所がありました。待避線は横断歩道の辺りから郵便局の端にかけて存在していました。
こちらは当時の様子を写した貴重な1枚。待合所の一角にあった売店の写真です。この売店では、絵葉書や地図・土産品・ラムネ・キャラメルなどを売っていたとの話があります。待合所はしゃんとしていて歪みが感じられませんが、関東大震災(大正12年)後に建て直したのでしょうか…?
答えはノーです。
これまた貴重な1枚で、震災直後の様子を写したもの。右端に写っている待合所を見ると…
倒壊を免れている…!?
実は、鉄道省や他の鉄道会社があたふたしていた中、江ノ電は比較的被害が小さかったようで、復旧には1ヶ月程度しかかかっていないのです。東電の配下にあったため、その財力を存分に活かせたというのもあるかもしれませんね。
終点付近(左端)では電車が海軍派遣員の詰所として使用されています。形状からして5-10号車のうちのどれかだと思うのですが、いかがでしょうか。
※追加調査により、6・7・10号車のいずれかと推測(2022.10.20追記)
さて、関東大震災といえば…、江ノ電はこの震災で第1号車を失ってしまいました。現場はこの鎌倉終点だそうです。停留場先の終点付近ではポール(当時は「トロリーポール」という集電装置を使っていました)の付け替えを行っていたようなので、その最中に炎上・焼死してしまったのでしょうか。
なんだか駅の話が全然進んでいないように感じますが、とりあえずこれにて第1項は終了。
2.2代目停留場
ということは…! なるほど、これで今の場所に移転…
しないんですよ、これが。
えっ、じゃあどこに移るの?
約60m先ですが、何か?( ˙-˙ )
こんなの意味ないじゃない、と思うかもしれませんが、もちろん移転にはしっかりとした理由があるのです。それは「交通の円滑化」です。どういうことかというと…
上図で示したように、当時は八幡宮・山ノ内(北鎌倉)方面よりも、長谷・材木座方面へ向かう車馬が圧倒的に多かったといいます。ここで長谷側に停留場があり、さらに待避線もあったとなれば…どちらの交通にも多大な影響を与える事間違いなしですね。
そこで、鎌倉駅前通りを挟んで反対側に移転し、この問題の解決を図ったのです。
これなら問題ありませんね!
なお、あえてこの時期に移転を行ったのにも理由がありまして…。実はこの頃、県が若宮大路の舗装工事を進めており、それに伴って江ノ電の線路が一部変更されることになっていたのです(線路を若宮大路の中心に敷き直す計画)。つまり、これに併せて停留場の移設工事までやってしまえば、少し手間が省けるというわけです。
移転後の2代目停留場の写真がこちら。電車の横に、先ほどとは形の違う待合所が建っていることが確認できます。この待合所は、昭和4年の移転時に建てられたもの…ではなく、実は昭和11,2年頃に建造されたものなのです。それまでの間は、どうやら旧来の待合所を使用していたようです(昭和8,9年頃に一度改築されている)。
現在の様子と合わせると、こんな感じ。松風堂ビルの前に待合所があり、線路の終点は「ホテルメトロポリタン鎌倉」(旧:警察署)の前にありました。
江ノ電鎌倉停留場は、この2代目位置で終戦を迎えます。戦後の江ノ電は路面電車ではなくなるので、移転の必要が生じます。さて、どこへ移るのでしょう?
3.3代目(現在位置)
見出しでバレちまったよ。
皆さん、お待たせしました。ようやく現在の鎌倉駅西口へ乗り入れます。
乗り入れの実施は、終戦後少しした昭和24年。復興に向けて少しずつ動き始める時期ですね。
さて、この移転ですが、以下の事由で行ったとされています。
①「軌道」を「鉄道」へと変更するにあたって、地方鉄道法に抵触する箇所を改良するため
②鎌倉市都市計画ならびに駅前一般交通の保安上、併用区間を撤廃するため
③線路新設予定箇所は空襲対策として家屋の強制疎開が行われたので、今のうちに移転工事を施行すれば付近の住居の犠牲は最小限に留められるため
①②はともかく、③の内容は少し意外ですよね?
実際に図面を見て確認してみると…
確かに、スカスカだ!
鎌倉が空襲被害を受けたという話はそう多くありませんが、それでもやはり空襲対策がとられていたのでしょう。
ところで、この図面にも見える新線と旧線の分岐点ですが、現在変電所のある場所が該当します。
和田塚5号踏切より。奥の変電所は旧線の跡地にあります。
こんな感じで旧線と分岐します。
さてと、話を駅に戻しまして…
これが3代目、現在の江ノ電鎌倉駅の図面です。
ふむふむ。改札や駅舎の位置など、細かい所こそ違いますが、概形は現在と変わりませんね。
2度目の移転以来、江ノ電鎌倉駅はこの姿を大きく変える事なく(駅舎の改築はありましたが…)、73年間佇んできたのです。では、今回は以上で…
って、ちょっと待ったー!
今の3番線ホームが無いじゃないの!
実はこの記事を書いている途中で図面をよく観察していたら、この衝撃の事実に気づいてしまったのです。これだから公文書は面白い。
さて、肝心なホームの設置時期ですが、はっきり言ってわかりません。インターネットで見た昭和38年撮影だという写真には写っていたので、これ以前のはずですが…。真相やいかに。
もしこの記事を読んでいる方で、何かしらの情報をお持ちの方は、ぜひともコメントでご教示くださいませ。
この際なので書いちゃいますが、私、鎌倉と江ノ電の近代史が専門でして、現代(終戦以降)の事は実はまだまだ勉強中なのですよね…。公文書も戦後のものは大体保護期間中ですし。
そういうわけで、西口乗り入れ後の鎌倉駅の事もあまり詳しくないのです…。
ここはぜひ、皆様のお力添えをいただければと思います。
第1回「鎌倉」、いかがでしたでしょうか。あまり上手でない説明で長々と書いてしまい、ちゃんと伝わったか不安ではありますが、どうぞこの先もよろしくお願い致します。
今回も年表を用意したので、ぜひ参考にしてください!
【江ノ電鎌倉駅 年表】
M43.11.4 (1910)
大町~小町間延伸に伴い若宮大路上に小町として開業
T4.10.18 (1915)
鎌倉に改称認可(9.18申請)
T12.9.1 (1923)
関東大震災発生, 終点で1号車炎上・焼失
S4.8.19 (1929)
終点を延長した上で待避線及び停留場を位置変更認可(3.4申請)
S9(1934)頃
待合所改築
S12(1937)頃
停留場横に待合所新築
S24.3.1 (1949)
省線鎌倉駅西口に乗入れ、共同使用駅営業開始
S38(1963)頃以前
3番線ホーム設置
S55.1.30 (1980)
鎌倉駅ホーム3番線のみ改良完成
S56.8.6 (1981)
新駅舎営業開始
R2.4 (2020)
駅構内をリニューアル