ひこねの駅研究所

江ノ電と駅について書いていくつもりです!

【江ノ電駅史】#21 姥ヶ谷 —松林の中にあった駅—

どうもお久しぶりです、ひこねです( ̄  ̄)ノ
このところ忙しくて、全然投稿できていませんね…。

 

さて、今回紹介するのはこちら。

姥ヶ谷(うばがや)停留場です。

 

 

今回も地図と年表を掲載しておきます。

地理院地図に筆者加筆

【姥ヶ谷停留場 年表】
M36.7.17 (1903)
行合-追揚間延伸に伴い開業
S14.7.17 (1939)
町道との
交叉地点にあったため、保安上停留場を軌道専用敷地内に約60m移転届出
※このとき、ホーム新設
S20.4.28 (1945)
休止認可
S23.4.14 (1948)
廃止認可(3.19申請)

 

 

1.姥ヶ谷停留場

音無橋停留場から150mほど行くと、七里ヶ浜3号踏切があります。開業当初、停留場はこの踏切の手前にありました。

▲奥に見えるのが七里ヶ浜3号踏切

 

姥ヶ谷停留場は、明治36(1903)年7月の行合-追揚間延伸に伴って開業しました。初めはホームのない簡素な構造だったようです。

開業後しばらくはこの形態で営業していましたが、下図の通り町道との交差点にあったため、旅客保安上の理由で昭和14(1939)年に移転されます。

▲公文書図面に筆者加筆

新停留場は、踏切を挟んで向かい側の、道路と軌道の間にあった空間(江ノ電の社有地内)に設けられました。なおこの際、ホームも新設されました。

実際の位置にあてはめると、下図のようになります。

現在でも道路が膨らんでいるので、跡地は見つけやすいです。新設されたホームは、長さ15m、幅は2mちょっと(2.26m?)です。

 

当停留場はその後、琵琶小路や海岸通などと共に、昭和20(1945)年に戦時休止されました。この休止は、昭和19(1944)年2月・同年6月・昭和20年4月の三度にわたって認可・実施されたため、姥ヶ谷停留場は最後の群まで残ったということがわかります。

ということは、それほど利用者も多かったのかというと、そうではないようです。休止時の平均乗降客数は241人で、休止された9停留場の中では下から2番目でした。当時この一帯は松の生い茂る別荘地だったので、利用者はそれほど多くならなかったのでしょうね。

ではなぜ最後まで残ったのか。これはおそらく、休止事由の一つでもある停留場間隔の問題でしょう。当停留場の休止当時、隣の七里ヶ浜停留場との距離は840mと、当時としてもかなり離れていました。その状態で停留場を休止すれば、さらに距離が開くことになります。事実、この七里ヶ浜稲村ヶ崎間は、現在でも駅間距離が最長です。

 

戦後は復活することなく、他の休止中の停留場と共に昭和23(1948)年に廃止されました。

 

停留場については以上です。



 

2.名所案内 —多くの文人たちが住んだ地—

地理院地図に筆者加筆

それではおまけパートへ。今回紹介するのは、停留場名の由来ともなった「姥ヶ谷(うばがや)」です。

 

姥ヶ谷は、停留場のあった七里ヶ浜3号踏切を入口とする谷戸です。ここにある2つの谷戸を「姥ヶ谷」と称することが多いですが、特に西側を「姥ヶ谷」、東側を「諏訪ヶ谷(すわがやつ)」と呼ぶこともあるそうです。

この谷戸には、谷口から見て横に長いその形状から「姥ヶ懐(うばがふところ)」という別称もあります。おそらく、これが地名の由来でしょう。
また、元弘3(1333)年の鎌倉攻めの際、北条側がこの谷戸に兵を隠した事から、「武者ヶ窪(むしゃがくぼ)」「むしゃかくしヶ谷(-がやつ)」との異称もあるそうです。

 

そんな姥ヶ谷界隈ですが、戦前には別荘地として栄え、多くの文人が住んでいました。ざっと列挙するだけでも、音無橋の付近に津田梅子新渡戸稲造(ダブル五千円札)・小牧近江谷戸の内部に西田幾多郎、停留場前に有島生馬等々…。

特に、旧有島生馬邸は「松の屋敷」といって、元所有人であるイタリア人の建てた家でありながら、一帯の海浜や松林に溶け込んだ洋館だったといいます。屋敷は、有島氏の没後に上智大学の所有となったのち、長野の信州新町に移築されています。

屋敷の跡地は、現在、老人ホーム「鎌倉碧邸」になっています。

 

 

 

3.地名の読みについて —「や」? 「やつ」?—

今回はさらにおまけで、地名の読みについて。
鎌倉の地理に詳しい方、あるいは以前の記事を読んでいただいた方ならば、きっと疑問に思っていることでしょう。「うばがやつ」じゃないのか、と。

 

山がちな鎌倉によく見られる、「〇〇ヶ谷」という地名は、そのほとんどが「〇〇がやつ」と読みます。しかし私が紹介した通り、ここ姥ヶ谷はしばしば「うばがや」と読まれます。

聞き込みや懐古本によって得られた個人的な体感ですが、どうやらこう読むのは、小町や由比ガ浜など、当地からやや離れた人々のようです。反対に稲村ガ崎一帯に住む人々は、慣例に従って「うばがやつ」と読んでいる人が多い印象です。


では、どうしてこのような事が発生したのでしょうか。私は、江ノ電の停留場が関係しているのではないかと推測しています。下図の通り、公文書の表からは、姥ヶ谷停留場の読みが公式に「うばがや」とされている事が読み取れます。

よって、地元民は「うばがやつ」と読み続けたが、少し離れた地域の江ノ電利用者は、ここは特別と思って「うばがや」と記憶したのではないかと考えます。

▲公文書の付表

ところで、山ノ内(北鎌倉)にも「小袋谷(こぶくろや)」という地名がありますが、これを「やと」や「やつ」と読まないのも、同様の理由があるのでしょうか…?

 

 

 

それでは、今回はこの辺りで。( _ _)

ところで、最近江ノ電が2次元バーコード決済を始めたようですね…。これもなるべく近いうちに備忘録を書かねば…。

 

 

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